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運について(前編)

運命の種々相と善人の生き方

世の中には、一見して理不尽に思えるような境遇に生きている方がたくさんいらっしゃいます。

いろいろある理不尽と見える境遇のなかでも、生まれながらにして心身に障害を抱えて生まれてくる方の存在などはその代表格であります。

また、「なるようになるさ」式に思慮浅く、やりたいことをやりたいようにやるというような生き方をして、その当人はストレスをためず、知らずのうちに他を押しのけ傷つけながら周囲に迷惑を掛けても恥じることなく、それでいてたいした不平も不満も感じずに健康に生きている人と、周囲におもんばかってばかりで自己のやりたいことも満足にやれずに、悶々とした想いを長期間蓄積したあげく、心ないしは肉体が病気のような症状になってゆく人たちがおります。

一般に善良な資質を持った慎み深い人々は、そのような人と自分を引き比べて、周囲に対して自分が行っている配慮とそれに対する報いのなさにため息をついて消沈するか、そのような人間模様の種々相に見て見ぬふりをしがちです。

どちらも精神医学的に観ると、現象としての病気を引き起こす原因となる想いの使い方であります。

しかし、一見して幸せにも見える先の例にあるような人が本当に幸せで、善良なるがゆえに葛藤を抱えた人が不幸せなのかというと、これが実際はまったく逆なのですから、人生というものはわからないものです。

通常の場合に人間は、あまりにも目の前の幸不幸に囚われているがゆえに、永遠の生命の観点に立つことを忘れています。

違う言葉で申しますと、すべての人の人生なり運命なりの永きにわたる変遷(生命の永遠性)を見通さずに、近視眼的に目の前の表れがすべてのように勘違いをしているのです。

なぜそうなるのかと申しますと、永遠を見通す眼力が自己に内在していることを忘れてしまっているからです。

そこで今回は、善良な資質を持つ人たちが、永遠を見通すことのできる心眼の自己にあることを思い出して、使いこなせるようになるための基本認識について触れてみたいと思います。(次回に続く)