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我が身かわいさのアセンション(前編)

 自分を真に大切にした生き方とは、生命を敬い、その力をいつでも最大限に発揮したした人生を歩めるよう、みずからの心身を調えた想念言行をなしつづけること。

 低次元の我が身かわいさの想いをいつまでも手放さない人は、時に他者のそれと擦れぶつかり合い、そこに不調和な現実を創出する。(地球上で繰り広げられている最底辺の生き方)

 突き詰めて観れば人は誰でも、他の何人よりも自己が大切で、その他はすべて二番目以降に大切なものである。

 真に利他なる生き方を標榜して生きることを望むならば、まずは自己の心の隅々までも徹底調査して、意識を丸裸にして見つめなければいけない。

 みずからを偽りなく観ることをせずして、「私は自分の都合など一切考えていない。私はいつでも大自然と生きとし生けるものの調和や、人類みんなの平和を、偽りなく願い生きている」と思おうとすることは偽善・欺瞞である。


我が身かわいさのアセンション

人は誰でも自分が可愛い。

このことは善悪正邪で片付けられる話ではなく、物質性の肉体を器として生きる人類の有りのままの実態であり事実である。

しかし地球に住む人々の心は、この事実をうやむやにしている場合が多い。

たとえばそれは、地球界にあって意識進化の最先端を歩んでいる人類愛の言行者、利他愛の表現者方にあってさえ、この事実が見つめられることがまだほとんどなく、過去世からの念願たる善念に突き動かされる形で、自己を押し殺しながら世のため人のために働いているケースがほとんどなのだ。

だがその一方、利他に生きることが心底からの喜びで、心のどの断面を輪切りにして観ても、なんら一切の自己犠牲的カルマのない人々がいることもまた事実である。

そのような人々に共通していることは、みずからの意識を丸裸にして、我が身かわいさの事実を見極めたうえで、その想いを丸ごと抱えたまま天来生命の光のなかに飛び込み、入り込んで生きていることにある。

いわく神我かみわれ一体の境地を自己のものとした人々である。

そのような人々は肉体にありながら、我が身かわいさをごまかすことなく受け入れつつ、太初はじめからある神域の意識を表現している。

すなわち、有限の“有りのまま”を“在るがまま”に生きつつ、それと同時に、無限の“在るがまま”(原初から在る光)を“有りのまま”に生きているといえるのである。

とはいえ、利他愛に生きる人々、人類愛を実践する人々の多くは、先程も述べたように、心に疼く我が身かわいさを押し殺しながら、過去世からの善業に突き動かされる形で利他愛の想念言行に勤しむ人々がほとんどなのである。

この世表面的に観ればそのような人々は、実際には上根・上等かつ立派な人々であり、誰にもケチをつけられるような生き方をしてはいない。

だが、心に押し隠した我が身かわいさを意識進化させることなく放置したまま、そのような生き方をつづけた場合には、肉体にある間、もしくはあの世へ往ってから、自己犠牲の習慣性想念をいのちの光で洗い去る修行が待っているものであり、その犠牲想念ゆえに、人類全体の意識進化を妨げていることも又事実なのである。

なぜかというと、上記のような生き様では、魂のバランスが歪であるがゆえ要修正なのであり、そのように無理のある生き方をしている場合には、反動の運命が創出されるからである。

いわゆる人=霊止としての円光が、まんまるに成り切っていないのである。

それは、いのちの光が素のままに現れた場合には、真円の球体の現れになるはずのものが、自己犠牲から発した押し殺した想いが心のなかに放置されている場合には、その円光に空洞が空いていたり、形が歪になっていたり、くすんだ色を発光していたりするのである。

ちょうどそれは、世間でいわれる“オーラ”の色を見ればその人の精神状態が一目瞭然であるのと同様の理で、そのさらに奥の奥にある“いのちの光の表れ”を観れば、すべき神性の発現が成された意識か否かが、一目瞭然なのである。(次回に続く)