『自分事』の真理を腑に落とすために

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●自分事 ~ 誰もが行き当たる壁

「縁あってお付き合いのある人や、テレビやインターネットなどで見聞する人の動向に思う想いが、他人事ではなく、自分事だというのは、どういうことなのでしょうか?」

本日はこの問いを元に、他人に対して思う感情的・表面的な評価が、他人に対する評価ではなく、自分に対する評価なのだということについて、どうしてそうなのかという背景と、どうすればその認識を身に修められるかについて、一緒に考えてゆきましょう。

質問にあるような疑問は、自らの信じ歩める道が、真実に生命の本源へ帰り行く道であるならば、意識進化の螺旋を昇りつづけてゆくうちに、誰もがいつかは行き当たる難関でありまして、この疑問をうちから湧きあがる気づきにてクリアーしたところに、太初はじめの昔からある《いのちの光》の世界、神域の意識階層があるのであります。

意識がそこへ回帰した方々はみな、他人に思う想いのすべてが、突き詰めて観れば、「己という創造意識の産物以外の何ものでもない」という事実を、当たり前のように自覚していて、想いが肉体に閉じ籠もっていた頃はどうであれ、今現在は、そのことに何らの疑問も不可思議さも抱いてはいないのです。

それは、元々ある生命意識の側から観れば、なんの取り越し苦労もなく思える当然認識なのであります。

●自分事の認識を忘れ果てた顛末

しかし、『星の天地』を開拓するために、未開の惑星へ(おもむ)き、己の生命体を粗い現れの波動体にどんどんディセンド下降(粗く)させて、最終的に肉体界という粗い波動の次元世界に行き着き、その波動圏に適した物質体(肉体身)に同化して入り込み、生まれ変わりを繰り返した立場からすれば、「この心身こそが私そのものである」という永年の勘違いが深く記憶にすり込まれていて、なかなかどうしてそのようには思えないでいるのであります。

●宇宙人類の応援

我々に縁ある故郷の星の宇宙人類たちは、そのような状況にある私たち地球人類に対して、次のように伝えています。

「真愛なる地球のともよ、あなた方がそのような自他を分離させた価値観を抜け出し、生命本来の《根源意識》を思い出し、帰り着く日は近い。

その時の到来は、もう、すぐそこまで迫っているのです。

わたしたちの世界では、《根源意識》のまたの名を《宇宙創造意識》と言います。

宇宙にあるひとはみな、大宇宙の創造主たる大生命の分かれの小生命として、その大いなる創造活動を手分けして担い、その数多(あまた)の調和が()べられた大調和世界を、深遠なる大宇宙に構築する使命を分け持てる生命体です。

すべてのひとが創造主なのです。

どうかそのことを思い出し、果てしなくつづくかのように思い違いし、回転させつづけてきた“責任転嫁のメリーゴーランド”を止めて、勇気をもって降りてみてください。

そうしてみれば、自分の世界の創造主は、まぎれもなく他でもない、あなた自身であったという事実が、心底から腑に落として理解出来るでありましょう」

彼ら生命の兄姉(けいし)方の言葉は、感情想念に貼り付いた想いの立場に立てば、ときには厳しく感じることもありますが、生命意識の側に立ってみれば、「さもありなん」ということばかりで、計り知れないほどの慈しみの光を、生命の弟妹(ていまい)である私たち地球人類に対して、降り注いでくださっていることがわかります。

280609

●宇宙社会への仲間入りを果たす前提条件

この《自分事》という認識を思い出し、自己のものとして再びよみがえらせることは、地球世界の開発が新たなる段階に入り、宇宙社会の仲間入りを果たして、先に霊化した星々の援助を受け、地球世界の開発をさらに進めてゆくための前提条件とも言うべき事案でありまして、私たち地球人類のすべてが、いつかは通るべき道なのであります。

●元々は宇宙創造意識の存在だった地球人類

それに関して、事前に知っておくべき重要なことは、私たち地球人類は、初めから自他の分離観念を持っていたわけではなく、元々は、他星の宇宙人類と同じように、宇宙創造意識の側にいた意識体だったという事実であります。

その立場から地球開発のために肉体身に入り込み、地球での輪廻転生を繰り返すうちに、いつしかそうした生命の真実を忘れ果てていただけだった、という事実を、噛んで含みつつ、よくよく味わってみるとよいのであります。

地球に来て間もない太古の昔、まだ霊体や幽体のみで生きていた頃、私たちはまだ宇宙創造意識を自覚して生きていました。

また、肉体界に降り立ったばかりの頃も、まだ宇宙創造意識を保っていました。

日本にある古神道は、その頃の名残を一部残しつつ、(いにしえ)の真理を現代にまで伝え、真理の生き方を示している道の一つであります。

人類はみな、一人の例外もなく《神の(すえ)》であります。また、神道で言う《八百万(やおよろず)の神》とは、すべてが《いのちの光》そのものであるという真理を示した言葉なのであります。

また、キリスト教にて伝えられているアダムとイブの話は、私たち地球人類が、本来の《宇宙創造意識》を忘れ去ってしまった事の顛末を、二人の男女の物語として、比喩的に伝えているものであります。

●私の体験

他人に対して思う評価を、自分のこととして捉え、処理する練習を、毎日の生活のなかで飽くことなく、うまずたゆまず地道に行ってゆくと、いつしかそれが習い性となって、生命本来の宇宙創造意識がよみがえってきます。

しかし、そこに至る手前の段階では、エゴのうずきがそれを邪魔して、なかなかそう思えないような事態のなかで、一進一退を繰り返すかも知れません。

私はそうでした。

どうしても「誰々がそうだからそう思うのだ。私は悪くない」と思えて、責任転嫁の境涯を脱け出せない日々が、何十年とつづきました。

そうした日々のなかで、幾度も繰り返す不協和想念に耐えかね、自分を責め裁いていた頃、あるとき忽然こつぜんと否定しようのない強い響きで湧きあがり、アッサリと想念習慣を生まれ変わらせる気づきがありました。

それは、「なぁんだ、他人に対して思ってきた評価は、自分のなかにある“とらわれ”を、他人のことのように勘違いして、ただ映し観ていただけだったんだ。心身の外の世界は、私の内なる世界の投影だったんだ」ということでした。

そのように認識して人と接すると、面白いように人が変わり、嫌な人というのがいなくなりました。実際には、″他人が変わったわけではなく、相手を見るフィルターが外れたため、ありのままの相手を観ることが出来るようになり、無用のジャッジをしなくなったために、自他のなかに《いのちの光》を見出すことが出来るようになったから″、というのが真相なのでありました。

●エゴの境涯を抜け出そう

そのような気づきがあった頃のことを思い出し、体験者として今だから言えるエゴからの抜け出し方のコツ、押さえるべきツボは、《エゴを実在の存在と認識しないこと》であります。

実在ではないと観るならば、ではどのように観ればよいのかと申しますと、″消え去るより他なき幻影″と観るのであります。

何故ならば、エゴは宇宙の初めから存在していた想いではありません。本来ある精妙な生命意識が、肉体という、これ以上なく粗い波動体に入り込んだことで、副産物的に生じた″意識の影″なのであります。

影であるならば、光を全方向から浴びせれば、消え去らないわけがありません。これに関しては、物理的実験にて確認・実証することが誰にでも出来ます。

また、人は被造物ではありませんので、その心身の内側からも、自発的に《いのちの光》を発することが出来ます。

外面的全方向から光を照射し、また内面のあらゆる部位からも光を発すれば、″意識の影″は″消え去るより他なき幻影″として、文字どおり消え去って、自らの宇宙は光一元の世界に変貌を遂げるのであります。

そうするためには、たとえどんな事態に直面したとしても、絶対に逃げず、諦めることなく真向かい、″エゴ(意識の影)″の発生を認識するたびに、「これでまた一つ消え去った!有り難うございます」と、心のなかで強く、己の生命に向かって宣言することです。

そう認識することは、影(闇)に生命光を照射して、消し去らしむることになるのであります。

と同時に、自分を導き、意識進化を志向しつづけられるように、内部から護り導いてくださっているハイアーセルフへの感謝を常に思うことです。

人間は、決して自分独りだけで生きているものではありません。いくつもの内部神性が混然一体となって、一人の人間を形成しているのであります。

内部神性の詳細に関しては、前回の文末の注釈をご参照ください。

ともあれ目覚めたる地球の友たちは、そのような精進をもって、意識進化の最終章を急速にアセンド(上昇)し、人類のエゴによって地球界が滅亡するのを防ぎながら、宇宙人類が地球界に姿を現すことが出来る段階へ至るよう、地球を取り巻く波動圏の次元上昇をはかり、やがて現れ来る宇宙船群の乗員である生命の兄姉の協力を仰ぎ、新たなる文明社会をこの星にも築き得るよう、力強い足音(あおと)を響かせ、日々の歩み意識進化の道を一歩また一歩と、進めているのであります。