訳もなくあふれ出る涙 ~ 真理との邂逅

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真理に触れる時旬に際して

宇宙の真理に触れたときに、訳もなく涙があふれて止まらなくなることがあります。

  • 真理の書やインターネット上の真理の記事に出逢い、読み進めるうちに
  • 対面する人から真理の話を聞いているときに
  • 否定しようのない、あふれ出る内なる気づきとして
  • 真理そのものの行を行っているときに
  • 真理の話に、録音や録画で触れているときに
  • 太陽や月、その他の星を見つめているときに
  • 意識が、大自然の風景に溶け込んだときに
  • 真理を表した音楽や絵画等、真の芸術に触れたときに

上記のように、真理に触れる場面のあり方は、人それぞれでありますが、共通することは、肉体人間の思いでは、何故泣けてくるのかが、皆目見当がつかず、とめどなく涙があふれ出て、その間は、理性で涙をコントロール出来なくなっている、ということであります。

そのような場合、その涙は、実は本人の涙ではなく、守護の神霊が流している涙なのであります。

訳もなくあふれ出る涙の内幕

その涙の内幕は、「ようやく目覚める時旬が来たね。やっと気がついてくれたね。なんとかここまで連れてくることが出来たんだよ。もう安心だよ。嬉しい、嬉しい、実に嬉しい!」という、守護の神霊の大いなる感激が、肉体にまであふれ出て伝わったものであるため、肉体人間側には、訳もなく涙があふれ出たというような現象となって現れているのです。

それが、あまりにも大いなる喜びの波動であるため、普段はハッキリと伝わることのない守護の神霊の意識が、障害なく肉体に直通して流れ入り、“当人には訳がわからない涙”として、伝えられているのであります。

そうした涙を体験した人は、しばらくの間は、何かはわからないながらも、肉体人間当人の涙として記憶にとどめているのですが、さらに守護の神霊との一体化が促進された過日のある日あるとき、「ああー、あのときの涙は、守護霊さまの喜びの発露だったのだなあ」と、ハッキリと自覚するときが来るのであります。

人間の心の真実

ひとりの肉体人間がここに生きているということは、決して当人だけの自我意識のみで成り立っているものではありません。

以前にも申しましたが、人間の心は、大別して七つの心で成立しています。

根源の生命心に始まって、外面的には、守護神心・守護霊心、内面的には、神体心・霊体心があり、一番末端の最下層の部分に、幽体心潜在意識肉体心顕在意識があって、それで初めてひとりの人間の心と体が成立し、存在しているのであります。

そのなかのどの心が欠けても、人は人として、ここに存在することが出来ません。

多くの人間は、その事実を忘れ果てているのです。

《いのちの意識》は、その事実を初めからよく知っているのです。

しかしながら、「肉体だけが人間だ、自分だ」と、頑迷に思い込んでいる間は、その事実に触れることが出来ないのであります。

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ひとは光

いつも申しておりますが、人間の本体は、このような物質体そのものではありません。

また、人間の本当の心・本心は、自分や近しい人だけの幸福を追求するような狭量な意識小さな想いにあるものでは、決してありません。

人間の本心・本体は、一言で表現すれば《光》です。

いのちとは、これ即ち《宇宙に遍満する充ち満ちた光》、《すべてをあらしめる大元のエネルギー》そのものなのであります。

そのいのちが働きかけて来ることなく、《いのちの光》がここ肉体に伝わって来ていなければ、肉体細胞は存在理由を失い、宇宙元素に還元してしまいます。

肉体の死が、その証明であります。

柔らかい部分は空気中に消え去り、長く残るのは、地球三次元の物質要素を濃く残した骨や歯の類のみであります。(それとていつかは消え去ります)

もちろん、《いのちの光》が供給されなければ、「我思うゆえに我あり」と思うことが出来るこの意識さえも、ここに存在することが出来ません。

そのような事実があるので、“地球を不調和ならしめる人間想念の状態は、生命エネルギーの誤用以外の何ものでもない”と、断言出来るのであります。

人間というものが、肉眼に見える物質体のみの存在であり、心というものが、自分が自分だと思っている自我より他にないと思って生きている人は、そうした事実を、よくよくかみしめて、かえりみることが必要なのであります。

そのような真理への探求心の積み重ねの先に、ほんとうの真理との邂逅かいこうがあります。

そして、「元々初めからあった《いのちの光》こそが、自分の本質だったのだなあ」という、神性への回帰心が表面化して来るのであります。

アセンションした世界とは、そのような歩みの先にある世界なのであります。