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友達が少なくても大丈夫

アセンションや次元上昇、意識進化、地球世界救済といったことに興味を持ち、それが自らの生まれてきた目的、ライフワークであると自覚している人のなかには、友達が少ないことを悩んでいる(いた)方々が少なからずおられます。私も妻もそうでしたし、私たちの知り合いにおいても、ほとんどの方がそのような実感をもたれておりました。

それはこの世の常識に照らして見たときには、「人格に問題があるのかな」、「どうしてみんなの輪に入れないんだろうな」という悩みの種になって、心を低く疼かせるのですが、結論的には「大丈夫、問題ありません」と断言いたします。理由としては、そのような質(たち)の人たちは、《いのちの光と直結することにしか慣れていない魂》だからであります。

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どういうことかと申しますと、人はみずからが在籍する星の世界にあって、あの世とこの世を行ったり来たりしながら、肉体界に誕生してくるときには、男性に生まれたり女性に生まれたり、様々な環境・立場・容姿を選んで生まれきて、どのような器(肉体)にあっても、滞りなく生命の本質である《神性》を顕現できるように魂進化をはかっているのですが、人の性質や霊系統、興味を抱く対象が十人十色ななかで、その人がたまたま《意識進化に重点を置いている魂》であるというだけのことなのであります。

こうした話は、どんな質がよい、悪いという話ではありません。単なる性質の違いでしかないのです。たとえ自分の肉眼に映るこの世の人たちが社交的に見えて、心のなかはともかく、表面上は愛想よくふるまっているのを羨み、コンプレックスを抱いて、「あの人たちが普通で、自分は普通じゃないんじゃないかな」と思えたとしても、そのような画一的なフィルターで自他を推し量り、「長所だ」、「欠点だ」といって、つつき回すような話ではないのです。

《いのちの光と直結することにしか慣れていない》ということは、前世やそれ以前の過去世においても、《神と一体化する修行》、《仏性開眼へ向けた修行》、《チャクラ開発の修業》、《自己限定解除の修行》等々を、生まれた国や地域のいろいろな宗教や修養等をとおして追求し、探求しつづけてきた、言い換えれば、そればかり求めつづけてきたというバックボーン、背景があってのことなのです。

ですから、「友達が少ない」と悩んでいる人のなかで、アセンションを志向している人は、何の心配もいらないのであります。別に私たちが人格破綻者なのでも、精神病なのでもありません。ただ単に、《そのような質なのだ》ということです。そうしたことに悩んでカウンセリングや精神科医などにかかると、「それは〇〇ですね。薬を処方します」、「ああ、それは〇〇ですからこの□□を受ければ治ります。代金は△△円です」などと言われ、病名というレッテルをはられてしまったり、金づるにされてしまうのが落ちです。他者依存の境涯を卒業できていない場合には、彼らにそのようなことを言われてしまうと、ほんとうは病気でも何でもないのに、彼らがはったレッテルを現実化しようとする想いの力が働き、「自分は病気なんだ。そうに違いない」と思い始め、やがて程なくして、ほんとうに病人になってしまうのであります。

自分が病気か病気じゃないか、それは医者等の他人に決めてもらうことではないのです。自分が決めることなのです。極端な例の実話ですが、医者が「あなたの目は放っておいたら失明しますよ。すぐに手術しましょう。ただし、手術をしても失明率は50%です」と宣告するような眼球の異常を感じたとしても、自分が「大丈夫、これは単なる疲れ目。目を使い過ぎたんだ。眼球さん、ごめんなさい。眼球さんの天命が果たされますように」と思って放っておいたら、いつの間にか治ってしまったということもあるのです。その人が医者の宣告時にその言葉を受け入れて、手術を行っていたならば、失明への不安、手術失敗への恐怖の想いによって症状が増幅されて、本当に失明していたかも知れません。それと同じように、友達がいないということに悩み、この世的な解決法を探し回って、自他の誰かが自分に病名のレッテルをはり、みずからが「そうに違いない」と思い込んだなら、その人は本当の精神病患者になってしまうのであります。

人は誰でも、みずからが想うところの人になるのです。レッテルはりをするなら、よいレッテルをはらなければいけません。しかしさらに上等な生き方は、見聞したこと、体験したことに、いちいちレッテルをはらないことであります。批評・批判・評価等をせず、ただ《有りのまま》を受け入れて、その奥にある《在るがまま》を観ているだけでよいのです。それができるということは、心にとらわれが少ないか、無くなったということであります。それは、《いのちの光と直結することにしか慣れていない魂》たちにとって、目指すべき最上の心境であります。そのような自分になれるよう、みずからの心身を磨き上げ、高め深めてゆく生き方に邁進してゆきたいものであります。