水のこころで生きるとき ~ 汚泥と水は分離した

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神性(愛)とカルマ(情)の違いを認識する

進化の途上にある現在までの人間の想いには、大別して二つの想いがあります。それは、神性意識とカルマ想念であります。この両極の想いの動きは誰の(なか)にもあるのですが、ほとんどの人は、この神性とカルマの違いを認識していません。

わかりやすい例には、《愛情》があります。愛情とは、神性意識から発する《真愛》と、カルマ想念から発する《情念》が混交して表れている想いの動きで、今日までの世界では、人と人との交流を滑らかに潤す、潤滑油的役割を、それなりには果たしてきました。

しかし、光に照らされた物体に影が付いてまわるように、親愛に情念がまとわり付くことの多かった愛情の真相を、これまでの人間想念の多くは、認識し得ずにおりました。

今日までの世界というものは、精神性の面でも物質性の面でも、すべての清濁が混ぜこぜになって表れている世界でありまして、それはちょうど、一寸先も見えない泥水のなかのような状態でありましたので、その世界に住む地球人類の多くが、《愛》と《情》の違いを認識出来ずにいたこともむべなるかなでありました。

泥水世界から真水世界への移行に際して

しかし、21世紀に入った今日の世界では、20世紀後半からハッキリと表面化してきた地球界におけるアセンション(次元上昇)の進行によって、泥水のように混濁していた世界の様相が一変し、泥は下部に沈殿し、きれいな水は上部に浮かびあがってまいりました。

ようやく地球人類にも、《愛》と《情》の根本的な違いを識別が出来る時期が到来したのであります。

「愛情が潤滑油のような働きをしてきたというのなら、これからも《愛》と《情》を別に分けなくても、愛情は愛情のままでいいじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、前述しましたように、地球界の霊化によって、泥成分と真水成分がハッキリと分離された今日にあっては、「泥も水も一緒である」と主張することは、別な見方をすれば、そのままでは混ざり合うことのない《水》と《油》を指して、「この二つは同じ成分で出来ているものであるから、水と油を区分けする必要はない」と言っているのと同じでありまして、事実を知らない誤認識からなる勘違いの一例であります。

人類が己が想念における《愛》と《情》の区別がつくようになりますと、意識進化が格段に深まってまいります。何故なれば、そこを突破口として、人間の本質である″こころ″と、その周囲にまとわり付いていた″おもい″の違いを、鮮明に識別することが可能になるからであります。

《心》は軽く、《想い》は重い

“こころ(いのち)”の響きは、元々軽いものです。対して、“おもい(想い、想念)” の響きは、重いものであります。

心が軽いと言いますのは、軽薄という意味ではなく、移動、浸透、代謝、進化等々が自由自在に行い得る存在であるという意味においての軽さ、軽快さを指します。またその自由自在性は、神性そのものが物質化して表れた《水》のごときものであります。

対して、想いが重いというのは駄洒落ではなく、言霊の観点からの観方であります。こうして、「重い」という言葉を文字で表現するだけでも重たいのですが、こうした事実はいずれ近い将来、目に見えない想念や意識エネルギーの重量が測定できる装置が開発されたとき、その実態が明らかなる真実として、誰の意識にも認識されて、「《こころ》そのもののエネルギーを、誤用して発っしてきた《想い》というものは、なんともはや重たいものだったのだなあ」という感想が、誰もの当然認識となりましょう。

本当のことを申せば、そのような装置の開発を待たずとも、そのような装置に依存しなくとも、人はみずからに内在する神域の意識《いのちの光》を表面化することによって、《愛》と《情》、引いては《こころ》と《おもい》の違いを本質的かつ体感的に実感して、理解することが誰にでも出来るのであります。

《愛》と《情》の識別が出来るようになりますと、感情想念に翻弄される回数が次第に減ってまいります。感情想念に翻弄されていない時間が長いということは、“いのちそのままの波動”が現れている時間が長い、“いのちそのものの光意識”が長く顕れているということでありまして、肉体にありながらカルマを、これまでのように積み重ねることが少なくなって来るのであります。

そうした意識の持ち主が多くなればなるほど、地球世界に神域波動圏を顕現する強力なる影の推進力となり、地上の次元上昇を力強く押し進めてゆくことになるのであります。

280521

自縄自縛ステージのフィナーレ

人間はすべからく神性そのものの存在であります。その事実を誰もが思い出しやすい時代が、ようやく地球にも到来したのであります。

今までのように、みずからが吐き出した重たい想念の繭にくるまって、自縄自縛の状態で生きる時代ステージは、もうすでに終焉終演を迎えています。

舞台がフィナーレを迎えているのに、心の眼耳を閉じ塞いでいるがために、終演の刻であることに気づくことが出来ないで、未だ想いの繭を脱がず、動物性の名残にしがみついていたのが、現在までの多くの地球人類の実態なのでありました。心の眼耳とは、五感の奥にある第六感やそれ以上に深い直観・直覚であります。

これからは、アセンションによって、そうした奥の感覚がよみがえって来るため、そうした人々も今後は次々と心の眼を見開き、周囲の音を聞き分け、これまでのステージのフィナーレと、新しいステージのオープニングの時旬なるを自覚し、みずからを蔽っていた繭(おもい)を脱ぎ去り、身軽な霊化した心身で生きるときがもうすぐやってまいります。

そうぜざるを得ないような出来事が、次から次へと起こってくるために、それに触発された魂の覚醒が、地球上のあちらこちらで始まっているからであります。というよりもそうした事態は、すでに数十年前から表面化しておりまして、21世紀以降では、その現れがことさらに顕著化しています。

表面世界における泥と水の分離化現象

このアセンションと呼ばれる《物質波動と精神波動の霊化》によって、現れの世界では、様々な変化が見られるようになってまいりました。その一番わかりやすい実例は、皆さんが日々のニュース報道でご覧になられている数々の悪事や不正等の不祥事の表面化であります。

これまでは汚濁にまみれ、混濁した世界の様相に隠れ、あまり表面化することのなかったすべての悪事や不正、不祥事等が白日の下にさらされ、隠しおおせることの叶わない時代であることが、ここ数年は誰の目にも明らかになってまいりました。

そうした次から次へと表面化する数々の悪事や不正、不祥事のニュース報道も、冒頭のほうで申しましたアセンションによる《泥》と《水》の分離化の結果でありまして、すべての人も組織も、有りのままの己や自組織の有り方を内省して、いのち本来の在るがままの在り方へと脱皮・進化してゆかなければならないときが今なのであります。

個人においても、組織においても、隠し事を是とすることは、みずからを穢し、苦しめることであります。泥水でにごっていた時代には、良心が麻痺してやってしまっていた悪事や不正をこれからもつづけることは、《泥》と《水》が分離した現代においては、大いなる違和感、耐えられない恥ずかしさになってくるのであります。世界中において、内部告発等が繰り返されているのもそのためであります。

すべての悪事や不正等が白日の下にさらされ、是正を促される方向性は、もう誰も逃げも隠れもすることの出来ない、大いなる時代の潮流・趨勢すうせいなのであります。

隠しおおせた悪事によって、これまで栄華を誇っていた人や組織は、浜辺につくられた砂の城が、繰り返し押し寄せる波によって崩れ落ちてゆくように、この世から自然消滅してゆくことでありましょう。

「なんでもかんでも隠せばいい」、「他人はだませばいい」、「自分さえよければいい」、「他人を傷つけてもへっちゃらだ」等々、そうした想念波動の持ち主は、今後みずからの想念習慣を捨て去って、生まれ変わった心もちで生き直さなければ、この世の波動の変化がますます耐えられないものになってまいります。

しかし、そのようなすべての混乱は、《いのちそのものの眼》から観ますと、進化のプロセスにおける、過ぎ去り、通り過ぎゆく車窓の風景でありまして、人類の意識進化がさらに進んでまいりますと、そのような状況はすべて地上から消え去り、歴史の1ページとなる性質のものであります。

水のこころで生きるとき

これまでに述べてきた、“こころそのもの”と《おもい》の違いを截然せつぜんと認識する事の大切さを思い知ることは、《泥》と《水》がハッキリと分離した時代の変化に適応して、水の心をもって、これからの時代を切り開き、生きる人たちにとっては、魂における学びの必須事項なのであります。

さらに申しますれば、すでに意識進化の螺旋に入っている人たちのうちで、己が魂の使命として、無私の心をもって志願する人たちには、人類が発生させてきた汚泥の数々(水と分離して沈殿している泥)を、宇宙人類と地球神霊たちとの共同作業により、みずからの肉体を器として発する生命波動の大光明にて浄化し、消滅し去るという大役が待っているのであります。

そうした働きのコアとなって働いている人たちが、地球上には日本を中心に、すでに数千人存在していて、日々地上世界と未成仏霊幽界の浄めの働きを、人知れず行っているのであります。彼ら一人一人は一地球市民として、みずからの働きを誇ることなく、顕示することなく、日々を謙虚に生きていらっしゃいます。

上善如水じょうぜんみずのごとし  ~ この老子の言葉を、すべての地球人類が実行に移すときは、「今」なのであります。