アセンション(次元上昇)

真実のアセンション・次元上昇とは? 意識進化で神性を生きる方法とは?

道とアセンション ~ 千利休に学ぶ

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道について

東洋思想には、老子に代表される【道】という概念があります。

アジア各国のなかでも、特にこの概念は日本国内において、広範な各界に細分化され広まり、普及してきました。

ざっとあげてみますと、合気道・茶道・剣道・柔道・華道・書道・相撲道等々、武道・芸術・芸事・学問他、いろいろな道があります。

スポーツ系の道などは、海外から輸入されたものではない日本発祥の武道は、すべてが単なるスポーツではない【道】として取り組まれています。

ここでいう道とは何かと申しますと、それぞれの世界における向上進歩をはかるためには、行いの基準となる様々な手本や手法がありますが、その根本に精神的な作法・型をすえて行い、その世界における究極を目指す行き方であります。

また、それらの道を修めるには、かたかたのあることを知り、型を外すことなく、形をしっかりつけることが最低条件です。

その段階を終えると、形にとらわれることのないオンリーワンの道を、自由自在に踏み行うことができる段階へ入ってゆくのであります。

そのあり方を端的に表した言葉が『守・破・離』として、各界における進歩向上への道として伝えられております。

『守・破・離』について

『守・破・離』とは、西暦1500年代の日本で茶道を広めた千利休が詠まれた和歌にある言葉で、それが後世の人によってピックアップされ広まったものです。

規矩作法きくさほう
守りつくして
破るとも
離るるとても
本を忘るな

上記の和歌における本来の真意は、「茶の湯の道は、規矩作法を守りつくすことに始まり、それを身に修めた者から形を打ち破り(創意工夫をなし)、形を離れる(己が独自の道を確立する)ことにより完成してゆくものではあるが、どこまで歩を進めたとても、本(規矩作法の根幹たる型)を忘れることがあってはなりませんよ」という、茶道を極めんとする人々への注意事項・戒めであります。

しかしいつからか『守・破・離』だけが独り歩きしてしてしまい、その真髄である「どんなに時を重ねようとも本(真髄)を忘れる事なかれ」という、根本の意図には見向きもしない解説ばかりが世に出回るようになってしまいました。

規矩作法と本(真髄)について

大切なところなのでここで規矩作法と、「忘るな」といわれた本(真髄)について説明をいたします。

最初のほうでも軽く触れましたが、道には形と型があります。

形とは、目に見える動作の手順であったり、一番理に適ったフォームであったり、現れの世界におけるマニュアル的なことを指します。

もう一方の型とは、目に見えない基本的な心構えであったり、その道を進む際の理法であったり、あるべき心の所作や心の姿勢を指しています。

この目に見えない型を踏み外すと、邪道や外道・脇道に陥り、正道や本道・大道を外れてしまうのであります。

その道を長く踏み行ってゆけば、目に見えない部分の型を踏み外しているか否かにかかわらず、基本の形であった形は、いつしか形を変えた自己流に自然のうちに変わってゆきます。

その段階へ進んだときに本道を歩んでいるかどうかは、千利休が和歌に詠んだ「本を忘るな」の《本》を踏み行いつづけているかどうかによってわかります。

多くの他人の目はごまかせても、師匠や自分の本心をごまかすことはできません。

型を外すことなく、形を外してゆくことができていれば、その人はその道における真髄をつかんでいるといえます。

この真髄は、千利休のいう「本」であり、脇道にそれて型を踏み外すことなく、正しく型を踏み行いつづけることによって、誰もが会得することのできるものであります。

ただしこれまでは、真髄を真に自己のものとした玄人は一握りでした。

なぜならば、道の途上で脇道の誘惑に負けて、みずから道(本)を踏み外す人が後を絶たなかったからであります。

各界の真髄について

ここでいくつかの世界の真髄と真髄をつかまない場合のあり方について見てみましょう。

音楽の真髄は、宇宙の調和の波動を音の調べで表すところにあります。

しかしその真髄を身に修めることなく表現された音楽は、不協和音に充ちた欲望や鬱憤を発散するためのツール、浅い感情想念を慰めるにとどまる響きに成り下がってしまいます。

絵画の真髄は、宇宙の調和の波動を二次元のなかに色と形をともなった絵として表現するところにあります。

しかしその真髄を身に修めることなく表現された絵画は、気持ち悪さをもよおすような落書き作品に成り下がってしまいます。

合気道の真髄は、私心を無くしてみずからが宇宙そのものとして振る舞うところにあります。

しかしその真髄を身に修めることなく力に力で対処しようとする場合には、そこに破壊や対立の有様を表現することになります。

意識進化の真髄は、みずからのすべてを生命の大海に融かして、《いのちの光》そのものとして生き、己の分担する宇宙心の創造活動を、個我で歪めることなくまっすぐに踏み行うところにあります。

しかしその真髄を身に修めることなく個我意識で進みつづける場合には、念力や超能力・霊能力といった脇道にそれ、目指すべき生命の根源へはいつまで経っても近づくことがかないません。

スポーツの道も、学問の道も、芸術の道も、意識進化の道も、どのような道においても、それを極めた人の到達点は同根の境地に行き着きます。

ですから、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というのであります。

なぜ一芸に秀でた人が多芸に通じるかと申しますと、すべての道は生命の根源がその発祥地であり、そこへ帰ってゆくプロセスであるからであります。

意識が大元の世界へ帰れば、そこはあらゆる道に通ずる世界なのであります。

そのような一芸に秀でる人には、共通点がありまして、それを冒頭の千利休の言葉で表現しますと、本(真髄)を忘れることなく、守・破・離のプロセスを、そこに至るまで正しく踏み行ってきたところであります。

281005

『型より入りて型より出づる』

この千利休の『守・破・離』と混同して解説されることが多いのが、観阿弥・世阿弥の世阿弥が残したとされる『型より入りて型より出づる』という言葉でありまして、その出自は『風姿花伝』という、能の理論書にあるといわれています。

こちらは千利休よりさかのぼること百数十年前の西暦1400年代初頭に最初のものが書かれ、西暦1500年頃に完成されたといわれています。

『型より入りて型より出づる』は、能楽の世界の真髄を表現した言葉でありまして、千利休の守・破・離の部分だけを取り上げてみれば、意味としては同じ内容を指した言葉です。

この場合の型は、先ほどの説明における形と型が混同されていて、表面的な話としてとらえられることが多いようです。

アセンションの道を行くにあたって

どちらにしても、意識進化の道を行く人がこの『守・破・離』なり、『型より入りて型より出づる』を行く道の参考にする場合には、精神的な型と、現れの想念言動行為における形の違いをシッカリと把握して、みずからを磨き高め上げてゆくことが肝要であります。

大切なことは真理を知ることであり、真髄をシッカリとつかんで本道を外れず、地道に一歩一歩の歩みを進めてゆくことであります。

基本的な形から入り、それを超えて自由自在な形を表現できるようになるには、そこに終始変わらぬ型を心に修めている必要があります。

それは、言い換えれば天地の理法であり、ゆるがせにできない生命のルールなのであります。

そしてそれは何も難しい話ではなく、【大調和】という宇宙法則に則っていさえすればよいのであります。

そこから道を踏み外すことがなければ、誰でも必ず型より入りて型より出づることができるのであり、本(真髄)を忘れずに、生命の規矩作法を守りつくし、それを打ち破り、離れる(生命の大海に出る)ことができるのであります。

アセンションの道における形とは、想念言行に愛と調和と感謝を表現することであり、型とは、それを行う心の姿勢であります。

心の姿勢は、意識の背筋を伸ばし、意識の肩の力を抜き、顎をシッカリと引いて生命の源と目前の足下を同時に見据えることであります。

現れの形を正しい手本にそって踏み行うことで、やがて心の型は自然に身につきますし、逆に、心の型から入って、現れの形に表現する行き方もあります。

自分がどの道を通るのがベストであるのかは、心の奥のハイアーセルフが知っていますので、既存の方法論にとらわれずに、いのちを生き生きと生かしたアセンションの道を踏み行ってゆきたいと思います。