いのちのメッセージ105 ~ 大いなる自力本願の先にある世界へ

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他力本願とハイアーセルフとの一体化

 いつでも外の世界に救いを求め、「誰かになんとかしてもらおうもらいたい」と考えているうちは、何ごともなんともならない。

またその誰かのなかに、みずからのハイアーセルフは含まれない。

なぜならハイアーセルフとは、自己の奥にある《いのちの光の一部》であり、みずからがその光のなかに飛び込み、一体化すべき己の一部だからである。

 ハイアーセルフによる直接的な導き・サポートは、超特別な使命を持った魂でないかぎりは、姿を現して話しかけてくれたり、自分以外の肉声として脳内に鳴りびびくことなどない。(今はまだ)

ハイアーセルフの側から観れば、今はまだ多くの人が直接的ハイアーセルフによる導き・サポートを受け取れないでいる理由は、他者依存の境涯に被守護体である人類を押しとどめおくことは、地球の進化を大いに損なう愚行であることを、誰のハイアーセルフもよくよくご存じだからである。

多くの魂がまだ自立していない現段階では、ほとんどの場合、その人自身の第一直観として表れるひらめきこそが、真実のハイアーセルフによる導きである。

この理にあらがい、何々リーディングやらチャネリングやら霊能者の門を叩き、ハイアーセルフのお言葉をたまわろうとする人は、残念ながら幽界の生物による誤導を賜るという、遠回りの人生行路を歩いている。

 ハイアーセルフになんとかしてもらおうもらうという考え方は、厳密にいえば間違った想いの用い方である。

なぜならばハイアーセルフは、自己の内部神性における外的守護の働きであり、その働きは、究極的には自己の本心本体から派生した生命の光だからである。

真実の意味でハイアーセルフにすがりきった他力本願の道とは、真の自己肯定をなし、自分(自身を分けた己)みずからを磨き高めあげ、みずからの意識波動を神域に近づけもしくは入り込んで、みずからの第一直観として受け取ることで成就する道である。

その反対に、自助努力を放棄した心境で「神さま仏さま、どうか助けてください」というような神頼み的心境による他力本願の肉体人間に対しては、その人自身のハイアーセルフは背後からのサポートしかなし得ないため、自身の内奥にて「未だ時至らず」と観て、自助努力を始めるときが来るまでは、ただ沈黙を貫き見守るのみ。

エゴによる自力本願

 何ごとも他力本願で生きているうちは、何人なんぴとも魂の未熟さを隠しきれないもの。

その逆に、自分が自分だと思っているエゴ想念による自力本願的生き方もまた、他力本願的生き方と同じ穴のムジナ的生き方である。

その理由わけは、エゴによる自力本願で頑張ろうとする想念の境涯が、因果応報の波動圏にとどまっているからである。

その場合には、意識が二元対立的な観念から抜け出せずにいるため、ヘドロのなかを前へ進もうとするような進みづらさを逃れ得ず、仮に念力にてそのネバネバした泥道を突破したところで、さらなる困難・障害が自己の行く手に立ちはだかり、いつまでも自他との戦いから抜け出せないからである。

280915

大いなる自力本願

 エゴによる自力本願ではなく、かといってすぐに誰かに頼ろうとする他力本願でもない、障礙しょうげなく澄み渡った視界広がる第三の道は、大いなる自力本願のなかにある。

 大いなる自力本願的生き方は、究極の他力本願ともいえる生き方である。

なぜならば《大いなる自力本願》とは、すべての自我想念を放棄し、大いなるいのちの光に意識が丸ごと入り込み、いのちの大海原に遍満する生命光のなかに想念意識のすべてを投げ出し委ね、みずからの意識が宇宙心に還元・拡大し融け拡がることだからである。

いつかは誰もが、その世界へと意識進化を果たしてゆくことになる。

真実にアセンション(次元上昇)した境涯が、大いなる自力本願の先に拡がる世界であるがゆえに。

 大いなる生命意識のなかに融け拡がった意識領域においては、どんなよいことも、他人がしてくれても有り難い、自分がさせていただいても有り難いというように、心底からコンコンと湧きあがる感謝の気持ちが、どんなときでも無限にループしている。

 大いなる自力本願が成就した暁には、どんな人も、不安や恐怖も、悲しみや恨みも、怒りや憎しみも、それら生命を誤用した想いが現れることのない意識で生きることが可能となる。

 大いなる自力本願の生き方を自己のものにするためには、脳の使い方を工夫することがよい。

なぜならば、脳こそが意識の物質化した現れであり、意識波動の物質界における中継アンテナだからである。

そのコツは、記憶脳を使わずに生命脳を使った想いの使い方をすることで、これまで使ってこなかった95%ともいわれる未使用の領域を意識的に使うのである。

 真実の自分、生命意識の自己は、すべての存在をジャッジして観ない。

すなわち決めつけて観ない。

ただ観るだけである。

五感に触れた対象を決めつけて観ず、ただありのままに観るとどうなるかというと、感情想念の嵐がきれいサッパリと消えた、晴れ渡った青空の自己と光り輝く霊光太陽そのものの本体が、つかず離れずピッタリとくっついて、一体化している事実を自覚するのである。

また、その領域は特別な領域ではなく、多くの人がすでに体験済みの領域である。

スポーツや勉強、仕事や家事等をとおして、信じられないほどの能力を発揮したり、一時間が一分ほどに感じるような意識領域こそ、生命意識の自己が顕現されている時間なのである。

それすなわち、いのちを燃やして生きること。

汝の天命をまっとうすべし。