いのちのメッセージ106 ~ いのちこそ我なり 他

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いのちこそ我

 『いのちこそが我』と心の底から思えれば、肉体上の人生に何が起ころうとも動じなくなる。

 『いのちこそが我』と心の底から思えるようになるためには、本心・本体と想念・肉体を截然と識別して、意識を常に本心・本体の側に置くこと。

 本心・本体と想念・肉体を截然と識別して、意識を常に本心・本体の側に置くためには、自分自身を客観視する視点を確かなものにすること。

 自分自身を客観視する視点を確かなものにするためには、常に呼吸を深く保つこと。

 常に呼吸を深く保つには、今まで無意識的に使っていた時間を意識的に活用して、常にみずからを鼓舞すること。

 今まで無意識的に使っていた時間を意識的に活用して、常にみずからを鼓舞するためには、真理の言葉・光の言葉・いのちそのものの清浄な言葉を常に心のなかに唱えつづけること。

その行為を祈りという。

祈りとは、いのちを宣言する行為であるから、常に祈り心でいることは、《いのちの光》を発揮していることになり、『いのちこそ我なり』の信念がますます深まり、やがては不退転の意識となるのである。

281012

肉体想念を客観視する神性意識を生きる

 私(神性意識)の行く手を遮るものは何も無い。

みずからが生命エネルギーを誤用して発生させた過去の記憶(想念の黒雲)の他には。

 人は他人に感じる想いをとおして、みずからの思考パターンを知ることができる。

感じた想いを相手のせいにしなければ。

 わけもなくイライラしたり、沈んだりするような想いは、潜在意識にこびり付いていた人間の本質を外れた想いが浮かびあがって消滅してゆく現象である。

 現れる想いに張り付かず、みずからを客観視することができれば、ただそれだけで想念習慣は消えてゆく。

 想念習慣が消えれば消えるほどに、神性意識が表面化してくる。

無為にしてなす自己は、神性意識のなかにこそあり。