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いのちのメッセージ46 ~ 宗教淘汰、無限の創造 他

宗教の淘汰について

 自己や近しいものの救われを主眼とした宗教信仰(その類含む)を実践し、それを心の拠りどころとして生きることは、歯列矯正器具を装着して、歯並びを矯正しながら生活しているようなものである。そうした行為は、言わば《こころの在り方を器具(信仰)という不自由・不自然なものを取り付けて矯正している状態》で、歯並びがよくなったら、いずれはその器具を外し、自然な歯で生活するときが来るように、意識進化した際には、信仰もその類も必要なくなり、誰もがいのちの光をそのままに顕して生きる世界になるのである。

 ひとの心を頑なにし、人間関係に亀裂を入れるような宗教はもう地球に必要ない。もしもこれからの時代に、必要とされる宗教があるとするならば、魂が自立した個人が結集して、神々天使(神霊や宇宙人)と共同して、地球世界の救済を行う活動をなす宗教である。自立した個人がもっと増えてゆけば、いつまでも救い上げず(自立させず)に、金銭ばかり巻き上げる宗教及びその類は、次第に淘汰されてゆくものである。ほとんどの既存宗教及び新興宗教は、やがて見る影もなく消え去ってゆくか、存続のために教義等の一新を迫られるだろう。

 宗教信仰に代わるこれからの信仰は、人類個々の内奥にある《いのちの光》に対する《生命信仰》である。ほんとうに《いのちの光》に意識が一体化する体験をすると、そこはワンネスの世界である。そこには、嫌な人も敵もいない。その世界では、ひとりひとりの生命光が一なるものであることを、誰もが当然認識しているため、人と人とがいがみ合い、争い合うことが皆無なのである。

 すべての人に内在する《生命の根源光》は、誰もの内奥にある一なるものであるため、高低貴賤もなく、神仏の名による別もなく、宗教思想の違いによる対立分断もない。故に、ひとりひとりが自分自身の生命を信じ仰ぎ、その光に一体化してゆけば、世界が大調和することは間違いない。

C00283-002N

不自由さのなかで無限なる創造を成す

 人間の本体本心は、次元の奥行きがある宇宙を縦横無尽に貫いて、自由自在に生きているものであるのに、肉体という小さな乗り物に入り込んで生きていることは、とても不自由なことだろう。しかし、その不自由な身にありながら、生命の自由自在性をそこに表現しようと日々取り組んでいることは、魂を大いに鍛え、無限なる創造の応用力をマスターする最高の機会を与えられているということである。それは、これからの生命遍歴のなかで、他の星の開発に携わる際にも、大いに役に立つ体験となるだろう。

 肉体が物質次元にある限り、物体としての不自由性は平等にある。故に肉体という器は、鍛え、労り、極力自然な食物をとり、メンテナンスを怠ってはならない。

 肉体は、本体の光が一時的に乗り込み、使っているいのちの乗り物である。

 肉体人間意識が忘れ去っているだけで、《いのちの光》は、ほんとうはものすごく大きく深いものである。それは、宇宙大と表現しても差し支えないほどの光で、その光に比べれば肉体人間が認識している自己など、比較にもならない小ささなのである。

不要な能力

 少年の日々への反省 ~ 物質に力量を加えて変化させる、動かす等の能力、いわゆる超能力は、それを持っていたとしても、人格向上進化の観点から観れば、なんの役にも立たないガラクタ能力である。みずからの手力や目力で物を動かして喜んでいる暇があるならば、その時間を愛深い自分になれるよう、日常の様々な関わりのなかで、みずからに潜在する無限の愛を想念・言葉・行為に顕すよう努めて、愛一元の己を磨き出すことである。

原因ではなく理由を知って行動する

 悲しみや痛みや苦しみの原因を、ほじくり出す必要はない。表れた原因、味合わなければいけない原因を見つけ出したところで、心のかさぶたを剥がし、傷心の治癒(汚心の洗浄)を遅らせるだけのこと。表れた原因をほじくり出すのではなく、表れた理由を知って、ハイアーセルフの懐に全幅の信頼を持って飛び込むことである。表れた理由とは、《過去の何処かの時点におけるみずからの生命エネルギーの誤用(言葉・想念・行為)による幽体の汚れを、ハイアーセルフが運命に表し消し去ってくださった》ということである。言葉を代えれば、消し去るために表れたということであり、表れたことによって消え去ったということでもある。故に、原因を知る必要はまったくなく、表された理由を知って、ハイアーセルフに感謝し、その胸に飛び込み一体化しさえすれば、それ以降の人生においては、何が表れても感情想念を動かすことなく、スッとハイアーセルフに統一をし、高次元意識の自己を保つことが誰にでもできるのである。付け加えると、ハイアーセルフ意識は内部神性であるため、自己の生命の権能を他に明け渡すことにはならないので、安心して一体化することがよい。これは無理難題でも、とんでも情報でもなんでもなく、人間が神性に回帰する道のひとつである。やるかやらないか、ただそれだけで、みずからが真に癒されるか癒されないかの、運命の分かれ道となる話である。