いのちのメッセージ49 〜 全体認識と個我認識、感情からの卒業

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全体認識と個我認識

 常に自分を、全体の一部として認識する練習をしよう。

 個が無くなれば全となる。全の意識は、調和した宇宙の運行に則っているから、そこには愛と幸せと感謝しかない。

 他人に愛を施されたとき、「余計なことをいうな、するな」と思ってしまう心境は、ワンネスを忘れた個我である。それは特に男性にありがちな、愛薄き想い(カルマ想念)のうごめきである。

 人と人との交流は、己の内なる愛をお互いに映し出して、与え合い、受け取り合っている状態である。そこに気が付ければ、「自分を離れた他人など無かったんだな」という真理の気づきに想いが至り、器が大きくなり、世界が広がるものである。

 自分の他人に対して為す言行が、愛の想いから為す言行だと肉体脳で思えたとしても、自己の自由に他人を動かそうとする想いの動きが根底にある言行であるならば、それは、愛とは非なるエゴ想念行為である。

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感情想念からの卒業

 自分の想いが愛なのか、エゴなのかわからない場合には、どこまでも深い呼吸とともに、意識をハイアーセルフの懐に飛び込ませて、神性の想い、ハイアーセルフの眼で、自分自身を客観視することがよい。そのときに脳裏を横切る、「自分はどう思うああだこう思うこうだ」といった一切の想念の動きは相手にせず、ただ通りすぎてゆくのを眺めているがよい。そして、呼吸のリズムに黙って乗っているがよい。深く、深く、何処までも深い呼吸のリズムは、宇宙の呼吸のリズムであるから、そこに己のバイブレーションを合わせてゆけば、おのずと意識が鎮魂して、ハイアーセルフの波動圏に入り込むことができるものである。

 感情のジェットコースターに乗った意識状態は、いつも自分の想いに振り回されていて、傍から見れば、喜怒哀楽がコロコロと移り変わり、浮いたり沈んだりしてせわしない。「大好き」とはしゃいでいたのが一瞬後には「やだ、もう嫌い」となったり等、子どもならまだしも、いい年をした大人が周囲を振り回し、周りの人に「あの人は手に余る人だ」と思わず思わせてしまうことは、少しく考えものである。やがてその毒は、巡り巡ってみずからの心身をむしばみ、想いや肉体を病むこともあるのだから、人はある程度の年齢になったなら、そのような幼い精神状態を卒業して、すべてを抱擁する器の大きさを磨き上げる努力を惜しまないことがよい。

 アセンションを志向する人が何よりも為さなければならないことは、スピリチュアルな体験をすることではなく、己の人格を磨くことである。人格を磨くとは、肉体という不自由な乗り物を自由に乗りこなして、みずからの肉体をスピリット(魂)の意志で、自在に運転することである。その姿をこの世的に客観視すれば、至極常識的で、奇異に思わせるそぶりなど一切見られず、「あの人は立派な人だな」と、アセンションとは無縁な意識状態の人にさえ、思わず思わせてしまうような人である。

 元々が霊的な存在なのだから、霊的な体験など望まなくともよい。それよりも大事なことは、肉体に霊性、神性を顕現し、光輝く《いのちの光》を顕すことである。

 人は男性も女性も、感情想念を卒業して、みずからのいのちの本質(霊性・神性)を顕すことに、一生をかけたとしても、決して惜しくはない。今生でそれを怠けるとするならば、あの世へ帰ってから数百年も数千年も苦行を積まねばならないことを思えば、この世の100年程度など、いと短き期間である。他のことは後回しにして、このことのみに重点を置いて生きてもよいほどに、意識進化の道を歩むことは、魂にとって大切なことなのである。それは、生きる時代、星にかかわりなくである。