いのちのメッセージ52 ~ いのちの温泉、自分ごと

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いのちの温泉

 《いのちの源泉かけ流しの光》に首まで浸かって、心身を芯まで温めるがよい。

 地上に地下から湧く物質界の温泉は有限で、使いつづければいつかは枯れ果ててしまうもの。しかし、心奥の天から湧き(いづ)る《いのちの温泉》の光は、無限なる湧出量をもち、24時間365日、個々人の誕生から昇天までの期間一生使いつづけても、その光が枯れることは決して無い。

 世に出回れる癒やしの情報、スピリチュアル情報、宗教信仰等によって得られる癒し・救われのほとんどは、人の手により加水・加温が施された循環温泉であるため、《いのちの源泉かけ流し温泉》と似て非なる擬似的効能しか得られぬものである。なんでもよいから温まりたいと思うならば、そのようなことは関係ないのであろうが。

 「いのちの温泉に行き、入りたい、浸かりたい、そして、芯から温まりたい、真の効能を得たい」と望むのなら、他人からもたらされる癒やしや救われに、自己の生命の権能を明け渡してはならない。何故ならば、《いのちの源泉かけ流しの光》は、ひとりひとりの生命の内奥からしか湧いていないからである。《いのちの温泉》に入りたいならば、己の内からおのずと湧き出る生命光に、みずからが裸の心で飛び込むことだ。

 《いのちの光の温泉》とは、生命光が湧き出したそのままの成分を損なわずに、純度100%の《いのちの光》が源泉として、新鮮な状態のままで心身を満たすものである。

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すべては自分ごと

 《すべては自分の宇宙の顕れ》と知れば、評論家のように他人事(ひとごと)として、「あれは良い悪い、あの人はどう、この人はこう」、「誰のせいで、彼のせいで」と、あらゆる《ひと・もの・こと》を批判・評価していた自分があまりにも幼く見えて、思わず微笑むものである。

 仏教に伝えられる『天上天下唯我独尊』とは、言葉の表面の意味から曲解されて、多くの場合は、自己中心さを表す言葉として用いられているが、本来は、「すべての世界は、宇宙大生命である(われ)が創造したものであり、それらはすべて円満完全である。故に、我自身がつくったこの世界を過小評価または過大評価する必要は毛頭なく、唯々(ただただ)尊ぶのみである」というような意味をもつ言葉である。

 自分があるから世界がある。自分がいなければ世界もない。

 あると思っている世界を認識しているのは、他でもない己自身である。人は、あらゆる《ひと・もの・こと》にレッテルを貼り、「これはどう、あれはこう」と、善悪優劣の評価をしているが、それは自分が見ている《ひと・もの・こと》の真の評価ではなく、あくまでも自分自身の認識というフィルターをとおした、色のついた世界である。また、自分が認識している《ひと・もの・こと》へのレッテルは、想念の浄化とともに消え去りゆく雲のごときものである。それを表して、《色即是空》というのである。

 《空即是色》の己が観る世界は、《すべてが自分ごと》なのである。それは空の世界、生命の根源という(ところ)が、すべての事象の元の世界であるからだ。自己の内なる宇宙を調和させるも不調和ならしめるも、すべては己の責任である。