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いのちのメッセージ80 ~ 思い込みからの脱却 他

思い込みから脱却するために

 多くの肉体人間は、あることを無いと思い込み、無いことをあると思い込んでいる。

 事実の探究をすることなく、「そんな訳がない」、「そんなはずがない」という、漠然とした否定の立ち位置にとどまっている人は、いつまで経っても自分を、《思い込みの牢獄》に押しとどめている。

 どんな言葉をもってしても、宇宙をあらしめる生命の真理・理の全貌は伝わり切るものではないが、素直な信の心をもって、理屈はわからなくとも、いのちに生かされていることに感謝して生きつづけた人か、科学的探究心をもって、みずからの魂・心身を研究材料にして、試行錯誤しながらも真理を行じつづけた人は、その心境の開け具合に応じて、生命の真理・理に触れることが出来る。このことは、人間の体が水に浮くかどうかを、プールに飛び込んだ人だけが、その真実を体感できることと同じであり、プールを前にして飛び込むのを躊躇している人は、水に飛び込めばどうなるのかを、見てわかったとしても、体で知ることが出来ないことと同じである。

ホンモノの謙虚さを身に納め生きるために

 人間は本来、《いのちの光》そのものである。しかしその在り方としては、心そのものは創造主でありながらも、肉体としては被造物であるということである。その被造物としての体を維持するために、他の生命の犠牲のうえに生きていることがわかれば、自分の力だけで生きているのではなく、生かされている命なのだという事実をハッキリと認識して、感謝一念の心で生きることが出来やすくなる。また、互いの生命の尊厳を自他に認めながら、謙虚に生きることも可能となる。

 肉体に入り込んで生きている限りにおいては、なんの非も無く、完璧な人間などは存在しない。故に人は、常にみずからを省みて、責任を負えない批判を垂れ流す前に生命光で浄化して、許し合って生きなければならない。

分離した人間観を卒業するために

 分離した人間観にある限りは、人は価値観の異なる他人を批判し合い、分かり合うことが出来ない。その内奥にあるワンネス意識を思い出そう。

 違いを認める勇気を持とう。この場合の勇気とは、自分を守ろうとする自己保存の動物的本能を脱皮して、意識のメタモルフォーゼを果たす勇気である。

 真理に適っている限りにおいては、視点や考え方が違うことは、なんの問題もない。それは、富士山を、西から観るか、東から観るかの違い程度のことなのだから。

疑念の境涯から飛翔するために

 疑いは、嫌疑の刃として、それを向けた相手をメッタ刺しにした後、その疑念の深さに応じて、みずからの運命を破壊する。

 疑念のサングラスを外して観れば、自分にとって不信を拭い切れないような、嫌な人や不愉快な人もまた、みずからと同じように、ただ有りのままに発展途上な道を歩んでいるだけだという事実が視界に入ってくる。