キリスト教聖書『ヨハネによる福音書』冒頭の一説に残された真理を腹中に修めるために

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キリスト教聖書『ヨハネによる福音書』冒頭に残された真理の言葉

キリスト教聖書の『ヨハネによる福音書』の冒頭に、

太初はじめに言あり、言は神とともにあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、よろずの物これにりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る、しかして暗黒は之を悟らざりき。」

とあります。

聖書に限らず、現代にまで残されている古代の書物は、原書の表現を後世の関係者が改ざんしていることが多いものですが、冒頭の箇所は、ほぼ原書の表現のまま残されている、貴重な真理の言葉であります。

真理の言葉を腹中に修める

この箇所の真理を腹中に修めることが出来ますと、宇宙の初めの在り方を、おぼろげながら思い出すことが誰にでも出来ます。

なぜならばこの箇所に画かれている言葉の表現は、日本語で言えば《言霊》の宿った言葉、西洋の言葉で言えば“ロゴス(logos)”でありまして、単なる言の葉の羅列ではなく、言エネルギーの込められた言霊の響き、宇宙を支配する理法が込められた言葉であるからであります。

まさしく太初には、言エネルギーがあったのです。

言とは、以前にも書きましたが、言霊の元の響きであり、この世側から観れば、言葉の元のエネルギーである言霊のさらに深奥にあるエネルギー、すなわち宇宙創造における根源の力、エネルギー源なのであります。

ゆえに、「太初に言あり」なのであります。

また、「言は神であり、これによって成り立たぬものはない」とありますが、キリスト教での解釈はともかく、私の解釈では、言も神もともに、生命エネルギーの現れ出る源の力、エネルギー源と解しておりまして、その解釈は、その後につづく「之に生命あり、この生命は人の光なりき」という箇所につながって、現れの命をその大元へとたどってゆくと、そこに在るものは、言であり、神であり、生命光そのものであるという、生命観になるのであります。

命に高低貴賎(きせん)はない  ~ 後世のキリスト教指導者の過ち

現在のクリスチャンの間で広く信じられている、天の父と神のひとり子であるイエス以外は、ヨハネ伝冒頭の箇所(太初に言ありから始まる部分)に直結しない存在、すなわち罪の子、言葉を変えれば《被造物》、《救われがたき者》という解釈は、イエスの偉大さをクローズアップさせて、あがめたてまつらせるために、後世のキリスト教指導者が自教布教のために、原書の表現を幾度にも渡り、改ざんしたものなのであります。

なぜそう言うかと申しますと、聖書をとおして読むと、そうした改ざん箇所が端々にありまして、冒頭の引用箇所にありますような真理の言葉と矛盾するような、ほころびた表現が随所に見られるからであります。

人間生命や霊的存在のすべてに高低貴賎の差を付けるような箇所は、まったくもって真理にたごう改ざん箇所であります。

そのような聖書のなかにありましても、冒頭に引用した「太初に言あり」から始まる箇所は、真理そのものの響きが現代にまで残されている箇所なのであります。

なかでも「生命は人の光なりき」という箇所は、日本において古代から伝えられてきた、“すべての人はすべからく神の裔である”という真理とも相通ずる響きをもつ箇所でありまして、真理というものが洋の東西を問わないことを、そこに証明しているのであります。

280617

民衆を魂の自立から遠ざけさせる新興宗教指導者

中世から現代にいたる、そうした過てるキリスト教指導者たちの、“誰かをあがめさせるためにその他大勢の民衆を低める手法”は、現代までの悪しき前例・手本となっていて、現代日本でいえば、新興宗教やその類の指導者層が、自己の立場を確立させるための手法として、自分たちに依存させ、民衆の魂の自立をさえぎり、私腹を肥やす目的及び権勢欲の充足がために利用されているのであります。

人の上に立つ者が、カエルやタヌキが崩れたような姿形をして、きらびやかな社殿や豪華な施設をつくり、自らは必要以上にぜいたくな暮らしをして、その立場を維持するためにそこにしがみつき、ふんぞり返っている姿等は、まったくいただけたものではありません。

上善如水じょうぜんみずのごとし」という、老子が残した真理の言葉にありますように、本来は、“人の上に立てば立つほど謙虚である”というのが、真実の指導者の在り方なのであります。

「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」とはうまく言ったものでありまして、そうではない人がいくら立派な肩書を持っていたとしても、意識レベルの数値を観れば、その真贋しんがんは歴然としているのであります。

そうした自称《指導者》の姿は、冒頭のヨハネ伝の言葉を借りますれば、「光は暗黒に照る、しかして暗黒は之を悟らざりき」の箇所そのものでありまして、当人たちは、「自分はこれでよい」と思っているのですが、而してその実態は、光そのものの人間の本質を外れた闇の想念波動の黒雲にさえぎられてしまっておりまして、生命の本質である《いのちの光》が見えなくなっているために、そうした想いのかたまりたちは、その真実を悟ることが出来ずにいるのであります。

修めた真理の言葉を、元々ある言エネルギーと一体化する

閑話休題で、冒頭に引用した聖書の一節に話を戻しますと、言は神であり、神は光であり、その光は生命そのものであるということで、人間生命の根源には、宇宙を創造した言のエネルギーが腹中に宿っているのであります。

この場合の《腹》とは、《こころ》と読み替えても構いません。

この文章の最初のほうで、「この箇所を腹中に修める」と書きましたが、それを実行すると、目で読んだ言葉として腹の中に修められた言葉と、元々腹中に宿っている言エネルギーが邂逅かいこうを果たしまして、宇宙創生の真理が心のなかによみがえるのであります。

真理とは、誰かの言葉によらずとも、自らの内面を掘り進んでゆけば、おのずと湧出してくるものでありますが、せっかく先人が残してくれた真理の言葉があるのであれば、それを活用しない手はないのであります。

そうした先人の残した真理の言葉は、言ってみれば《呼び水》のようなものであります。

今の若い人たちにはあまりピンと来ないかもしれませんが、呼び水とは、井戸の水を出やすくするために使った水でありまして、内奥の真理を引き出しやすくするためのきっかけ、トリガーとなる性質のものであります。

ヨハネ伝冒頭の箇所などは、まさしくそうした真理の呼び水となる箇所でありまして、何度も読み返しては腹中に修め、元々ある内なる言エネルギーを掘り起こすとよいのであります。