『千と千尋の神隠し』に観るこの世のさまと人の在るべき姿

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天の真理と人心の純化

昨夜テレビを観ていると、『千と千尋の神隠し』の再放送があったので、妻と二人で観ていた。

私たち夫婦は、自分たちの実生活上で起こる想いの動きはもちろんのこと、テレビや映画、小説・その他書籍、音楽・絵画その他芸術等々の人造作品や、宇宙創造エネルギーや地球大生命が創造した宇宙・大自然等、なんでも宇宙真理に照らし観て感想をシェアし合う習慣があるので、『千と千尋の神隠し』もそうした観点から観て、現実の人間界へ向けたメッセージが随処にちりばめられていることを、交互に語り合いながら観ていたのだった。

製作者の方々が映画をつくるにあたっては、天のメッセージを降ろして普及する意図など、たぶんまったく持ってはいなかっただろうけれど、この映画にかぎらず、真理のひびきに合致する内容の作品(人がつくるすべてのもの)には、その制作者たちの背後(内奥)にて、天の諸神善霊が働きかけて、人心の純化をはかっているものなのである。

映画監督の宮崎駿氏は、“近しい人の娘さんを喜ばせたくてこの映画をつくった”というような話をしていたそうだが、そうした何気ない人と人との関わりにおける愛情表現のなかにこそ、人間本来の神性が輝いているものなのだ。

その在り方(神性の顕れ方)は、けっして押しつけがましくなく、他者を楽しませたり、喜びを共有し合ったり、感動を呼び起こしたりするひびきのなかに、何気なく真理のスパイスやエッセンスが効いているというような、控えめかつ地味な在り方なのである。

『千と千尋の神隠し』を観て感じていたこと

ここで私たちが、『千と千尋の神隠し』の物語のなかで、真理のひびきが人間界へのメッセージとしてどのように顕れていると観じたかを、幾つかかいつまんで紹介したいと思う。

シェア① ~ 千尋の両親がブタになってしまった場面

まず初めのほうで、千尋一家が引っ越しの途中に道に迷って車を降り、冥界に通じる建物の形をしたトンネルをくぐって、商店街のようなところへ行き着き、そこでおいしそうな食べ物の匂いに誘われて神々を客とするお店に入り、千尋の両親が店の人がいないにもかかわらず、品物を勝手に皿に盛り食べる場面と、その少し後で千尋が外から戻ってきて、ブタになってしまった両親の姿に驚く場面は、キリスト教聖書のアダムとイブの物語を思い出させるものだった。

神域の世界から観れば、本当はすべての人に罪はないのだけれど、現代のこの世に生きる人々の間では、宗教的思想の有無にかかわらず、「人間の本性とは、どうしようもない(罪深い、性悪な)ものだ」との認識が一般化してしまっている。

アダムとイブの話との共通点として私たちが観じていたのは、【“欲深さ”に負けたこと = 原罪】ということで、アダムとイブは“禁断の果実”を、千尋の両親は目の前に並べられたご馳走を食べてしまったことで、生命の真実である自由自在性を忘れ果て、不自由性の存在になり果てたのだということだった。

シェア② ~ ハクの言葉

次に特に印象に残っているのは、湯婆婆ユバーバに頼み込んで油屋で働く身となった翌朝、「両親に会わせてあげるから橋のところへおいで」とハクに誘い出されブタ小屋へ行き、そこでブタになった両親に千尋が一生懸命話しかけるが気づいてもらえないでいる場面だ。

そこで千尋がブタになった両親に話しかけるが反応してもらえず、ハクのほうを振り向き言葉を待つときに、ハクの語った言葉が現在人間界に生きる人々の姿を示唆している。

千尋が「病気かな?ケガしている?」と尋ねるとハクは、「いや、お腹がいっぱいで寝ているんだよ。人間だってことは、今は忘れている」と答えた場面のことで、その場面は、カルマ想念の闇に安住してしまって、本来の神性人類である意識を眠らせてしまっている肉体人間の姿に重なって観えたのだった。

シェア③ ~ 銭婆(ゼニーバ)の言葉

また後半の、ハクが湯婆婆ユバーバの命を受けて盗んだ魔女の契約印を千尋が銭婆ゼニーバに返しに行った場面で、銭婆ゼニーバが「おまえを助けてあげたいけど、どうすることもできないよ。この世界の決まりだからね。両親のことも、ボーイフレンドの竜のことも自分でやるしかない」と言われ、「でも、何かヒントをもらえませんか?ハクと私、ずっと前に逢ったことがあるみたいなんです」と千尋が伝えたとき、銭婆ゼニーバが「じゃあ話が早いよ。一度逢ったことは忘れないものさ、思い出せないだけで……」と伝えた言葉が、生命意識そのものの光の本心本体へ回帰しようとしている人間たちに、希望を抱かせる言葉だと感じたのだった。

シェア④ ~ オクサレ様(河の神)登場の場面

他にもいくつもの箇所で、二人で顔を見合わせる場面があったのだが、全部書くと長くなるので、最後にもう一箇所だけ紹介して終わりにしたいと思う。

それは、オクサレ様と呼ばれる、気を失うほどのものすごい異臭を発する化け物のような神様のことで、すべての従業員が「お引き取り願いたい」と願うなかで、湯婆婆ユバーバは千尋を世話役に指名し入浴の世話をさせるのだが、それが実はオクサレ様などではなく、名のある川の主、“河の神”だとわかったという下りだ。

千尋がリンや釜爺かまじいのバックアップを受けながら、大量の薬湯でオクサレ様河の神の体を流していると、人間が捨てた自転車やその他諸々の生活用品、粗大ごみのようなものがオクサレ様河の神の体から流出してきて、スッカリ体の汚れが清められた際には、老翁の竜になって現れ、千尋を「善哉よきかな善哉よきかな」という言葉で労い、喜びをあらわにして、歓喜雀躍かんきじゃくやく天空の彼方に飛び去っていったのだった。

その場面を観ていて、しみじみと感じたことは、人間たちは、川や山・海などの自然や、植物や動物・昆虫類・魚介類等々に人間のような意識のあることを認めていないけれど、すべての存在には精霊が宿っていて、人間たちの傍若無人なる振る舞いによって、けがされたり、傷つけられたりしていて、かなり疲弊しているということだ。

人類が意識進化すると天地がよみがえる

それはメルヘンッチックな空想の話などではけっしてなく、とても現実的リアルな、肉体人間がここに存在している以上に、アリアリとハッキリ実在している存在なのだ。

人類が次元上昇を果たすと、そうした存在たちの本来の輝きや清らかさ、新陳代謝力がよみがえり、天地そのものが生き生きとよみがえるのである。

そうした場面を観ていて、「これからも(霊止)として生きつづけることを選択するなら、私たち人類は誰もが、そうした人間以外の生きとし生けるもの、ありて在るすべての存在のなか内奥にも、本来の生命が神々天使、諸精霊として息づいていることを、心して想い直し、認識を改めなければならないのだなあ」と感じたのだった。