愛と次元上昇(前編)

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愛と意識の種々相

真愛に生きるケース

地球世界の真の平和を願って生きる人々は、誰もが皆、自分自身が愛深くあるよう、みずからを慎み深く導きながら、その人なりの愛をそれぞれに表現しながら生きておられます。

そして、表現されるその愛が、実際に心奥より湧きあがり来る真愛(真実の愛、神愛)である場合には、意識が神化(進化)の度合いを深め、心身の霊化が進み、それによってさらに奥深いいのちの大愛(慈愛)を表現するという、好循環の展開をきわめつつあるのであります。

そのような人は、宇宙生命の真源により近づきつつある今を生きているといえます。

真愛と勘違いした個我愛に生きるケース

しかし時折、本人が愛だと信じ表現している言動行為の実態が、本物の愛とはかけ離れている場合があります。

そのような場合には、自己中心的個我愛の表現にとどまっているので、実態としては、施される愛が周囲を真に活かすことがなく、もっぱら当人の感情想念の充足(自己満足)に終始しているのです。

そのような心境は、自己の殻に閉じこもったクローズドマインド(閉ざされし心)の状態であり、生命の実体であるワンネスの意味を心身に体得していない境界です。

クローズドマインドの反義語はオープンマインドですが、そのように心が生命の大海原につながり拓かれている場合には、自他に対しての偏見が心のなかの何処にもなく(又は少なく)、何ごと・何もの・何人なんぴととでも、そのバックボーンにかかわらず気さくに向き合うことが出来るので、そのような人は、すべての現れに内在する神性を当然のように認めることが出来て、愛の交流が速やかかつスピーディーに行い得るのであります。

真愛に生きながら苦悩の境界に生きるケース

また、あんなにも愛深く善良な心で生きているにもかかわらず、なぜあのように気の毒な境界なのかと、傍から見ても感嘆せずにいられないケースもままありますが、それは、自分か他人のどちらかを、ないがしろにしたり、あざむいたりしていた時代に蒔いた運命の種が実りの時期を迎えて、現れ消え去りゆく時旬が、たまたま今であるケースなので、表面的には愛深く善良に見える人でも、その想念行為と反比例して、不幸と思わしき境界に過ごしている人もあるのであります。

そのような場合には、あと少しの辛抱で名実ともに幸福な境界が拓かれる寸前のときを生きているので、どんな立場・環境のなかにあっても、自分を赦しかつ愛しつつ、他人を赦しかつ愛しつづけ、生きとし生けるものと大自然のすべてに、人間本来の無限なる愛を放ちつづけながら生きてゆけばよいのです。

そのような人は、諦めることなく真愛を表現して生きてさえいれば、必ず生命の大海原にある無限なる豊かさや供給が、その人の人生上に展開されてゆくに決まっているのです。

なぜならば、人類は一人の例外もなく、神聖なる存在だからです。(次回に続く)