知らぬが仏でいてよい時代は終わった

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知らぬが仏の時代は終わった

辞書によれば、『「知らぬが仏」=知れば腹が立ったり悩んだりするようなことでも、知らなければ平静な心でいられるということのたとえ。また、本人だけが知らずに澄ましているさまを、あざけって言うことば』とありますが、知らぬが仏でいてよい時代は終わりました。

それはどういうことかと申しますと、上記ふたつの用法の最初の面から言えば、知らないで平静な心でいる状態は、知れば想いが乱れるような生半可な心境にあるということであり、もうひとつの面の本人だけが知らずに澄ましていることは、生悟りな心境にあるというということを示しているからであります。

これからの人類に求められる人物像

現代の人類、これからの人類に求められる人物像は、何を見聞きしても想いが乱れない、誰に会って、何を言われても、されても、想いが乱れることのない心境を自己のものとした、ホンモノの仏性・神性そのものの人たちなのであります。

アセンションした人類とは、ホンモノの悟りを自己のものとした人たちであり、そうした人々は、知らぬが仏であるような生悟りの心境を、とうの昔に卒業した人たちなのであります。

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何を想うかの責任の所在

前述したとおり、地球界の未来を切り開く現代人のあり方としては、何を見聞きしても、誰に会って、何を言われても、されても、想いが乱れないことが望ましいというのは、五感に感じる外の世界のことばかりではなく、むしろ自己の内面、心のひだにこびりついて、表面化することのなかった想いを観たときに、どういう反応を示すかの方が重要であります。

何故ならば、この世の世界で見聞すること、他人から言われたり、されたりすることそのものは、良いも悪いもなく、ただ表れては消えてゆく、ありのまま(あるがままではない)の姿でしかないからであります。

それらに意味を与えているのは、自分の想いです。想いがこの世の有り様に意味を与えているのです。その想いがこの世の有り様に触れて、何を思うかの責任の所在は、自分自身にあるのです。

他のなにものにも、責任はないのであります。それらは、消えるために表れた、進化の途上の姿でしかないのです。良いも悪いもないのです。例えば絵画を例にとりますと、完成前の描きかけの作品に対して、良い悪いの評価をすることは、まったく意味のない行為であります。それと同じことなのです。

すべての有り様は、ただ表れては消えてゆくだけです。そうした消えゆく有り様に対して、善悪・清濁・好き嫌い等を感じて想いを乱しているのは、他の誰でもない自分自身なのです。その事実を、ハッキリと直視して、認めるべき時代が今なのであります。

自分が悪い意味を与えて観なければ、この世に悪い出来事などないのです。すべては、大完成・大調和へ至るプロセスでしかないのです。そのプロセスに引っかかって、とらわれ、意識進化できずに立ち止まっている想いのあり方をこそ、神域の意識に昇格させるべきなのであります。

知らぬが仏の次の段階

知らぬが仏の次の段階には、前記の《すべては自分ごとである》という認識を、受け入れる段階が待っているのであります。

その段階をクリアして、知っても仏でいられる人たちは、その次元上昇した意識をもって、宇宙人類の仲間入りを果たすことができるのであります。

知っても想いが乱れない、何を見聞しても、言われても、されても心が乱れないというのは、宇宙社会の仲間入りを果たすための最低限の心得なのであります。