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神社仏閣の真実(後編)

(前回の続き)

正しい祈願とは

次に正しい祈願について述べよう。

正しい祈願とは、全体の調和を願う祈りである。

全体の調和を願う祈りこそ、正しい祈願なのであり、それこそが真の祈りといえるのである。

真の祈りとは、祈り言葉を媒介として、大生命(生命の根源)の大海に自己のすべてを投げ出す私心なき行為であって、そこには個人的な願望は一切含み得ないのである。

人は本来、みんながそうしているから、神社仏閣がそれを勧めるからとて、自分の理性でその是非を考えることなく、盲目的かつ惰性的に自己都合的願望成就の達成(引き付け)を画策して、神社仏閣詣でをするものでない。

本来は肉体身こそが神社仏閣だった

人々がそのような気づきを得て、真理に基づいた行動をするようになった暁には、神社仏閣詣でをする必要性が薄れてゆく。

なぜならば、各々の心身が生ける神社仏閣としてよみがえるからである。

元来は、肉体身こそが神仏の真に働きたもうお宮だったのである。

みずからの心身が神社仏閣であることを自覚した人にとっては、他の何ものかに願い事を叶えてもらおうとすることなどは、まったくもって意味のない行為であり、不必要な行動なのである。

そのように意識進化を果たした人々が神社仏閣へ行くことは、それぞれの神社仏閣を覆う肉体人間の欲望想念とそこに群がる幽界念波を浄め、その神社仏閣に働く神仏の働きが表面化することを助ける働きとなる。

ゆえに、そのような意識で神社仏閣詣でをすることこそが、現代における正しい祈願の在り方といえるのである。

ご神体(鏡)が映し出すのは詣でる人の本質

また、日本の神社には鏡が御神体として置かれているが、その理由は、お詣りする人の有りのままと在るがままの姿を映し出すためである。

「鏡から“が(我)”を取れば“かみ(神)”になる」と、世間の一部で言われるように、神社仏閣で祈りを捧げ、そこでみずからの本心・本体と邂逅することこそが、神社仏閣詣での本来の目的だったのである。

遠い遠い大昔(神代の昔)、人々がまだ自分たちの神性を当り前に自覚していた時代には、神社仏閣の類の建造物は地上になかった。

しかし子々孫々と代を重ねるごとに、おのが神性を忘れ果てた肉体人間がみずからの神性を思い出す場所として神社が建造され、人々はそこにお詣りすることで、みずからの神性と邂逅しそのつながりを回復して、生命根源のエネルギーを肉体につなぎ止めてきたのである。

だがそのようなあり方も、さらに時代が進んでゆくうちに記憶の彼方へと忘れ去られ、やがて神社仏閣は肉体人間の自己都合による願望や欲望を神仏に叶えてもらう場所として認識されるようになり果てていったのだった。

神社仏閣の次元上昇

私たち現代人は今こそ、くすませてしまった自己の神性をピカピカに磨き出して、みずからの心身を完全なる神社仏閣・生けるお宮としてよみがえらせなければならない。

そのような人が一人二人、また一人と増え、やがて真実の働きをなす神社仏閣(神性人類)がそこここに建立こんりゅう(復活)されたとき、世の多くの人間もまた連鎖的に、他力本願的な自己都合による願望成就の願い事を卒業することとなるのである。

そのようにして神社仏閣としての働きを取り戻した人々ばかりがお詣りするようになった暁には、建造物としての神社仏閣に蔓延はびこっていたエゴイスティックな肉体人間の願望念波と、その波に引き寄せられた(汚いところに湧くウジのような)幽界念波は浄め尽くされ、建造物としての神社仏閣も元来もつ働きを一時期的には取り戻すのであるが、やがてはそれらの施設もその使命を終え歴史上の建造物として、記録の上のみに見られるものと相成るのである。

すでに意識進化を果たした人々、果たしつつある人々は、各々が歩く神社仏閣としての働きを成し、現在進行形で施設としての神社仏閣の浄めをなしつつ、地上の次元上昇を牽引しているのである。

(終わり)