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真実の生命観(前編)

人間観、神観、生命観について想いを致す

「人間とは如何なるものか」を説く人間観も、「神とは如何なるものか」を説く神観も、どちらもそれらが真実の内容を示すものならば、究極的には、すべてが真実の生命観のなかで相和して溶け合い、べられてゆくものです。

なぜならば、真実の人間観も真実の神観も、生命全体の真実をそこに活き活きと画き顕しているものだからであります。

「人間とはなんぞや」
「私たちは何ものなのだろう」
「いのちってなんだろう」
「たくさんの動物や植物を創り出した力は何ものだろうか」
「数え切れないほどの星を産み出し、大調和させながら運行・展開する力の源はなんなのだろうか」
等々、人間の命のことやその他の生命体のこと、大自然や宇宙の事々等に想いをはせると、命の元の力、すべてをあらしめる力に想いを致さずにはいられません。

しかし現在までの地球上では、そのような事々に想いを致す人のほうがマイノリティーのようであります。

私などは、家で妻と毎日そのような話(宇宙の真理に関する話)ばかりしているので、世間の一般的な思考のあり方と感覚がまったく合わないものでありますが、たしかにそのようなことに深く想いを致す人は少ないようです。

『人間は神性そのものの存在であり、いのちの奥で一つに結ばれたるものである』、『宇宙大生命の経綸のなかに全人類があり、その”いのち”の外にある人はない』という価値観がすべての人々の心内にあれば、この世の不調和は自然のうちに是正され、大調和した世界を築いてゆくこととなるのですが、現在はまだ多くの人の価値観が『人間は神性の存在などではなく、神仏は神仏、人間は人間』というように切り離して見るか、『神も仏もあるもんか』と命をあらしめる力の存在を否定し真っ暗闇の中でうごめくように、『人間は所詮自分勝手な存在であり、個々が分離したまったく別個の存在である』という観点にとどまっています。

それゆえ、この世の多くの人々は、自分たちがそう思ったとおりの不完全性を表し生きながら、あげくの果てには、にっちもさっちもいかない現実を創出してきました。

それは、自分たちがつくり出した不調和な生命観(人間観・神観を含む)に自縄自縛された状態でありまして、この生命観(人生の基本認識)を正しいものに置き換えて認識しさえすれば、そこから真実の意識進化に至る第一歩を踏み出し始めることが、誰にでも出来得るのであります。(次回に続く)