神聖に直結した意識の特徴は、以下のような『発心』が『行動』と直結していることです。
「○○が出来るようになりたい」
「○○の資格を取りたい」
「○○をマスターしたい」
「○○を確かなものにしたい」
日常生活のなかで前向きな想いが起こった時、それが実現する人の特徴は、思い画いた発心と行動の間に隙間が無いことです。
しかし、過去の人間観に基づいた思考に立っているケースでは、無意識的に第一直観である『発心』にブレーキをかけたり、それをくつがえして他の考えで塗り替えたりなどの業想念行為に自己の権能を明け渡してしまい、前向きな『行動』は影を潜めます。
そうすると、神聖に直結した閃きたる『発心』は輝きを失い、思いあぐねている内に心内にカルマを蓄積することになるのです。
この場合のカルマを蓄積するとはどういう状態かと申しますと、不完全燃焼の想いのカスが心に蓄積することであり、時間と共に揮発してゆくそれらはやがて心の空に立ち上り、いのちの光を覆い隠す暗雲となって立ちこめます。
かくして人間は、なかなか思い通りにならない運命の渦のなかで堂々巡りを繰り返してきたのであります。
人が人生を振り返る時、多くの場合、「思った通りにいかなかった」と嘆きます。
しかし、冷静に事実関係をトレースして省みますと、自分が思った通りの人生を歩んでいた事実を見ることになります。
よくいわれることですが、多くの人にとっての人生とは、『思い通りではなくとも思った通りの人生』なのです。
では『思い通りではないが、思った通りの人生』とはどのような状態でしょうか?
ここを直視して受け容れることで、想い画いた通りの人生航路へ舵を切ることが出来ます。
それを知るためには先ず初めに、自分が「何を当り前である」と認識しているかを観察することです。
何故そうするのがよいかと申しますと、一人の人物の運命というものは、その人自身の当然認識が形成しているからです。
「無理」「駄目」「出来ないに決まってる」「時期尚早だ」
人間に内在する諸々の無限なる力を否定することに慣れ切ったネガティブな想念習慣は、事ある毎に上記のようなブレーキを自らにかけて、自らの進化向上を妨げています。
今こそ『自己限定の想いの癖』を卒業する時旬です。
何を「当り前だ」と思っているか、その当然認識をアップデートするのです。
(次回に続く)