記憶があるからこそ生きてこられた
人間という生物は、記憶があるからこそ生きられるという側面があるね。
例えば、何をどうしてそうすればこうなるというようなことは、体験に基づく記憶がなければおぼつかない。
人生を歩んでくうえで、「何をどうしたらいいのかまったく分からない。私は右も左も分からない」ってならないでいられるのは、それはひとえに記憶に助けられているからだ。
考えてみて。
「私はエレベーターの乗り方が分からない」「私は包丁やハサミの使い方が分からない」「私は歩き方が分からない」「私はしゃべり方が分からない」「私は電車の乗り方が分からない」「私はお風呂に入って何をすればいいかわからない」「私は買い物の仕方が分からない」「私はテレビの見方が分からない」ってふうにならないのはなぜだと思う?
それは、記憶に基づいてこういうときにはこうすればいい、どうするときにはどうすればいいって認識があるからでしょ。
それはひとえに記憶のお蔭だといえる。
そういうふうに、記憶があるからこそ出来てることがあるってのも一面の事実なんだけど、でもその記憶も「過ぎたるは及ばざるが如し」って格言と同じで、記憶に把われ過ぎていると、人間に内在してる無限の可能性にフタをしてしまって、自分の明るい未来を閉ざし、切り開けなくしてる面があるのもまた一面の事実なんだよ。
記憶によって未来を閉ざしている実例
記憶に把われ過ぎるってことがどれだけ自分の可能性を閉ざしてたのかを知るためには、自分が人生のなかでしてきた実例を元に紐解くといい。
例えば、「あの人はすぐに反対するから」とか「なんかとっつきにくいから」って類の理由でもって、「あの人に意見を言うのはなんか気が引けるんだよなあ」って尻込みすることはない?
それは何気ない職場なんかでのありふれた実例だけど、そういう想いの動きが起こるということが『記憶に把われている』からこその想いの動きなんだよ。
もしそんな考えが思い浮かばなかったら自分の考えが採用されて、みんながそのお蔭をもって幸せになれたかも知れないのに、そういうのは、自分が過去の記憶にとらわれて尻込みしてしまったが為に、せっかくの輝かしい未来をつくり得る機会を台無しにしてしまってるんだな。
そんなふうに尻込みしてしまうようなときには、そのとき心のどこかで「反対されたらどうしよう」とか「反論されたら面倒くさいなあ」とか「無下に断られるのは癪だなあ」とかみたいに、自分が傷つかないように、自分が嫌な想いをしないように、自分を守ろうとする自己保存の動物本能がうずいてるんだ。
それこそが、記憶に把われて未来を損なっているもったいない行為だといえるだよ。
人間という生物はそういうことに関しては一事が万事で、自分の想いの癖に基づく行動パターンでもって、だいたいおんなじように動いてる。
そこを変えてかないと、どんだけ時間が経ってもおんなじとこを堂々巡りするだけの人生にとどまってしまうんだ。
じゃあどうすればいいのって思うでしょ。
大丈夫。
今から記憶に邪魔されずに未来を切り開く方法を話すから、そういうもんなんだなって思って自分の人生に応用してごらん。
(次回に続く)