(前回の続き)
現象界を在らしめるもの 〜 釈迦が本当に伝えたかったこと
「他人はいる。だけど本当はいない。
あるのは我が意識のみ。」
これにうなずける人は、すでにあらゆる次元を貫いた世界の原理についての悟りを得た人だといえる。
分からない人のために、もうちょっと言葉を肉体心に寄せてやさしく伝るよ。
いいかい?
「他人が何を思い語り行動しようと、私に干渉するものではない。
それらはなんら一切、私の本質を犯すものではないからだ。
ゆえに、『他人はいない』といえるのである。
あるのは唯、私が他の人に感じ反応した想いと、こうありたいと"いのちの光"で画いたビジョンのみ。
ゆえに、私の世界は私が創っているのだ。」
そう思える人は、やがて地上に降り来たる神性文明の時代にあって、自由自在にいのちの力を使いこなして、輝かしい運命を創造出来る人だ。
「他人が何を思い何を語り何をしようと関係ない。」そう断言できる人は、今は少ないかも知れない。
なぜなら自意識の権能を他に明け渡してる人ばかりだからだ。
『自己意識の権能を他に明け渡す』ということがどういうことか分かる?
それは、自らの運命における"製造者責任"を他に転嫁して、自らの責任を放棄している姿なんだよ。
この事実を踏まえて、自分を含めた世界を見渡してごらん。
客観的事実として、運命の創造責任を他になすりつけている人や組織や国ばかりでしょ。
それは自分の料理の腕を棚に上げて、「私が作った料理を美味しくないとあなたが思うのは、あなたの舌がおかしいからだ」と相手を責めるようなことなの。
そうやって無理筋なマウントを取ろうとして、仮に自分の思い通りに事が運んだって、それは高利貸しにお金を借りてやりたいことしてるようなもんだから、その後の運命は、借金返済の日々だといえる。
栄枯盛衰は世の習いっていうでしょ。そういうことよ。
それは"意識レベルが肉体にベットリと張り付いている場合にはそうなる"ということであって、霊体や神体の意識を肉体に表わして生きてる人には関係ない話。
事実を事実として観ること
だからきみは何も恐れることはない。
きみの心は真っ直ぐにいのちの源につながっているし、時々記憶に流されることがあるけれど、きみはすぐに生命の本質を志向する心に立ち戻っている。
そのままのきみが進む先には、すべてを可能にする創造性に満ちた未来が広がっている。
事実をただの事実として、感情を交えずに観ることが出来れば、きみの意識は俯瞰的視野に立っているといえるんだ。
それは前にも言ったけど、ひとつ上の次元、奥の次元にある自分に帰り、それを表して生きてることなんだよ。
いのちのマイホームはその数段階奥にあるんだけど、その生き方をしているかぎり、いのちそのものの自分に還元するのは時間の問題だ。
だからきみは、いのちが持つものすごい力を当り前に自覚して表わす練習をしてればいい。
そのためには、ユッタリとした呼吸と全感謝の心を標準装備する練習をするのがいいね。
そうしてさえいれば、神性というのは無理やり表わそうとしなくても、自然に心の奥からにじみ出てくる。
事実を事実として客観的に観るというのは、この世の有り様に対してだけじゃあなく、自分の心の実態を中心に見るのがいいんだから、そのことを忘れないようにね。
なぜなら、何度も言うけど、肉体の外の世界に引っかかりザワつく想いというのは、自分と自分の関係性を端的に表わしてるからだよ。
自分の中が整えば、人間は他人や世界に心を乱すことがなくなるんだ。
だから自分の感情が乱れたならば、その原因は自らの内側の人たちが不調和な状態にあると思えばいい。
そしてその事実を見るんだ。
そうやって内なる宇宙に調和した世界を築いてゆけば、きみはいのちのマイホームに帰った意識でもって、この世に平和をもたらす使者になるだろう。
(おわり)