(前回の続き)
虚しい努力の境涯を卒業しよう
さっき人の意識というのは、プラスに偏ってもマイナスに偏ってもバランスを欠いてしまうもんだって話したでしょ。
それが分からないと気分が極端から極端へひっくり返ってしまって、「なんかめんどくさいから私は今までの自分でいいや」ってなっちゃう。
だからこそ知ってほしいことは、肉体に想いが張り付いた状態でいるかぎりは、どんなに一生懸命ポジティブな自分になろうなろうとしても、理想の人格を求め求めつづけても、何処まで進んでもそれは虚しい努力になってしまうってことなんだ。
ここで、どうして今までの世界じゃあ、善人たちの輝きが弱かったのかを考えてみてごらん。
それは、意識状態がネガティブに偏った人たちと同じ穴の狢になってしまってたからだよ。
なんでそうなるのって?
うん、いい質問だね。
それは現象界というのが、精神的表れも物質的表れもどっちも二極化して表れるように出来てる世界だからだよ。
なかでも、一番大事な人間たちの意識がポジティブに偏ったりネガティブに偏ったりしてると、栄枯盛衰の法則でもって、行き過ぎた極の意識はなんかのきっかけで簡単に反転してしまって対極の意識状態になってしまうんだ。
それは、"さっき笑ってた人が今は泣いている"とか、"昨日まで不機嫌だった人が今日は上機嫌だ"みたいに、ポジティブがネガティブに、ネガティブがポジティブに、コロコロコロコロひっくり返りやすい意識状態なんだ。
「ネガティブがポジティブにひっくり返るんならいいじゃないか」って思うかも知れないけど、意識が肉体に張り付いてるかぎりは、プラス・マイナス両極にあるその意識は砂上の楼閣みたいなもんで持続することなく、いつまで経っても永遠に安定した幸せの境涯には立てないことになってしまう。
さっき話したように、極と極を両方いっぺんに俯瞰して認め抱擁してあげないかぎりは、思い込みやこだわり、決め付けや執着から離れられないんだ。
そのように俯瞰できるバードアイズビューの意識領域というのは、二次元ではなく三次元、三次元ではなく四次元というように、ひとつ上の次元にあるんだよ。
そうやって両極端の自分をいっぺんに俯瞰して認め抱擁するということを言葉を換えていえば、極と極の想いに霊意識を掛け合わせてプラマイゼロにすることだといえるね。
それは、良いでも悪いでもないことを識ることだといえる。
また、善にも悪にも、好きにも嫌いにも把われなくなることだともいえる。
俯瞰できる意識視野を標準装備しよう
そのように広く自他を一望して、何ごとにも動じなくなるのが俯瞰できる意識視野なんだ。
それを自分のものにするためには、現れの世界の原理を知るのがいい。
現象界ってのは、物体に光が当たればそこに影が出来る世界だって言ったでしょ。
人の意識にそれを当てはめてみるんだ。
例えば、そうだねえ、俯瞰する立ち位置に立たないかぎりは、人が誰かを愛そうとする心には、もれなく愛と真逆の感情想念が付いてまわるようなことだね。
それは人は時に、愛するがゆえに嫉妬したり疑ってしまったり、相手が自分の思い通りにならないのが気に入らなくなってきたりするようなことだといえる。
物体と影の例にそれを当てはめれば、ポジティブがネガティブに反転してしまうのは影の想いになってしまうことでしょ。
生命の真実を忘れた状態の人間意識というのは、影のなかに入り込んでしまって、自分が影そのものになってしまうようなことをしてるってことなんだ。
それをまた別の例えで言うなら、映画館で映画を見てるとして、見てる自分がホントの自分なのに、それを忘れるくらいにストーリーへ感情移入してしまって、スクリーンのなかに入り込んでしまった想念状態だともいえるね。
そのように、徒労に終わる虚しい努力の境涯を卒業するためには、ひとつ奥の次元に意識を次元上昇させる必要があるわけ。(次回に続く)