(前回の続き)
真実の愛と偽りの愛
人類が本来持つ神性のなかには幾つもの特徴があるんだけど、愛ほど主観に左右されるものはないね。
っていうのは、その人その人の"こだわりや思い込み"と"真実の愛"との間には、とても強力な親和性があるということでもある。
多くの人は、独りよがりな自己都合と執着の押し付けを愛だと思い込んで、その想いが叶わぬ際の不安や怒り、妬みや恨みなんかと背中合わせの心持ちで生きている。
それは、「好き!」の裏側に簡単に引っくり返り得る「嫌い!」があるということであり、思い通りに事が進まない場合には、安易に「愛してる」と言った舌の根が乾かぬうちに「もう愛せない」と前言撤回するような想いが横たわっているということでもある。
きみが愛する人に向けて発する「愛してる」という言葉は、たとえどんなことがあったとしてさえも、絶対に変わぬ気持ちだと断言できるかい?
もし断言できるならそれを貫いてほしい。
断言できない場合は、自分の心の動きを正直に見つめて、「今の自分の意識レベルはこれくらいのもの」と明らめて、自分を磨き高め上げてゆけばいい。
きみが心の底から本気で意識進化を志向しているのなら『愛と見紛う私心』を成仏させて、
新しい時代の標準意識
愛というのはなにも、男女の間に芽生える感情だけをいうんじゃあないんだよ。
きみの周りにも老若男女にかかわらず、愛すべき人たちはたくさんいるでしょ。
そういう人たちと関わりながら過ごす日常生活のなかで、どういう想いの動きでもって日々を生きているか?
それこそが意識的に観察すべき対象なんだ。
そのときには、肉体に張り付いた想いでもってそれをやろうとしても出来っこないから、いつも言うように、最低一つは上の次元に意識を置いて、そこから肉体性の想いを眺めるのがいい。
それは、
宇宙を創造した大元の意識が自らを観るものと観られるものとに分けたのと同じように、人間も本来は『観る意識』と『観られる意識』とがあるんだ。
それを忘れた人たちは、『観られる意識』である側の肉体想念を『観る側の意識』だと信じ込んじゃって、『観られる側の意識』であることを忘れてたんだな。
でももう、そんな勘違いの日々とお別れする日が近づいている。
もう少ししたら、今までの習慣の想いのままでいたら大変な辛酸を味わう段階に入る。
それは、地球を取り巻くすべての精神波動と物質波動のあるべき周波数が、完全に霊的な次元に入り込むようになるからだよ。
そうなってからやり直すのはなかなか骨の折れることだから、新しい時代の標準意識に関する話ばかりをしてるわけ。
もちろん神霊文明になった星々で使われている科学力でもってつくられた波動調整装置を使えば、ネガティブなことを思おうとしても思えないような人を造るのはわけないんだけど、その場合には、その人の魂の実力が伴っていないから、その後の補習に該当する人生の学びを体験しなければならない。
もちろん、きみには直接の関係はない話だけどね。
(次回に続く)