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Voice of brothers 457 太古の記憶を思い出す時旬に(前編)

★生命太陽を浴びる頻度は意識レベルと比例している

心に輝く太陽を、顕在心でもっていつも観測出来ている人は、神性意識を生きているといえるね。

それはいのちの光、霊光太陽、生命根源のエネルギー等々、いろいろな呼び方があるけれど、いずれも宇宙を創造して、すべてを生かしつつ在らしめている大元の力のことをいうんだよ。

心眼が開けた人には、すべての人に内在しているそのいのちの光が観えるんだ。

いや、それどころか、すべての生物にも、自然界のあらゆる現象や物質のなかにも、いのちの光を見出すことが出来る。

だから、万物が宇宙創造の生命エネルギーによって存在している事実がなんの不思議もなくわかって、絶え間ない感謝の想いが自然に湧き上がってくるというわけ。

そのことを違う角度から言えば、『生命太陽を浴びる頻度は意識レベルに比例している』ともいえるね。

これを逆に考えると、自分の意識レベルが今、どれくらいの位置に常住してるかがわかるんだよ。

例えば、幽界レベルにある人は、何ごと何ものにも感謝の想いをいだくことが出来ないでいる。

霊界の下位から中位にある人は、気が向いたときだけ感謝の想いをいだくことが出来てる。

要は、気分次第ってやつだ。

もっと上の霊界中位から上位に意識が常住している人は、六割から九割くらいの割合で感謝の想いが溢れてる。

それで、意識が神域に常住している人は、すべてのものごとに感謝の想いをいだくことが出来てるんだ。

この基準で己の常住意識を俯瞰すれば、自分の表面意識が今、何処の階層に住んでるかが一目瞭然にしてわかるんだよ。

★自在心で生きれば人は誰もが神人だ

心の空に雲がかかっている人は、自分のいのちの光を十分に浴びることが出来ないでいるから、精神細胞と肉体細胞の新陳代謝が遅れる傾向にあるんだ。

それは、カルマともエゴともいえる身体に張り付いた想いの波で、肉体や幽体に想念がペッタリとくっついてるときに起こりやすい現象だといえるんだよ。

それで、意識の常住階層が霊界レベルになってくると、晴れ時々曇りみたいな、むら雲が時折通り過ぎてく状況にあるから、心が身体に張り付くことがなくなるんだ。

だけど、こだわりや思い込みという想いの雲がまだ残ってるから、いのちの太陽が完全に姿を現すことがないでいるね。

そういう観点から観ると、人間は、どんな出来事や状況に際しても、意識がサラサラサラサラと流れてて、一つところにとどまらない心でいられるのが至高の心であることがわかるでしょ。

前にも話したけど、それを自在心というんだよ。

自分のこだわりや思い込みというコンタクトレンズを心の眼球から取ると、すべての”有りのまま”と”在るがまま”が”そのまま”に観えるようになるんだよ。

そのときの意識というのは、何を見ても、何を聞いても、何に触れても、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとかのジャッジ無しにすべてを俯瞰することが出来るから、意識が宇宙創造心にかぎりなく近いところにあるわけ。

だから、すべてを慈しんで、赦し愛することが出来るんだよ。

そういう心で生きている人を神人というんだよ。

人間は本来みんな神人なんだ。

でもそれを忘れてただけで、今、どんな心境にあって、どういう想念言動行為に手を染めている人でも、誰もがホントは神そのものなんだよ。(次回に続く)

 

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