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Voice of brothers 271 史実と不実にとらわれない歴史の見方(前編)

★史実と不実

今日は、学生時代を経た人なら誰もが習ったことのある歴史について、ぼくたちの見解を伝えよう。

まず一つハッキリと言えることは、「きみたちが見た教科書に載っている歴史は史実そのものではなく不実が多い」ということだよ。

なぜそう言い切るかというと、近代のことを言えば何処の国でも、教科書の作成に関わった人たちが時の政権に忖度したうえで事実をねじ曲げて書いていることが一つ。

それと、記録に残っている近代以前の歴史なんてのも、その時々の権力者に都合のよい解釈のみが現代に伝わっていることがもう一つ。

最後に、記録に残っていない歴史というのも、残存する物証から年代を推定して、「これはどれぐらい前のものだろう」と推測したうえでアバウトに年代をはじき出して、それが事実であるかのように書かれているからだよ。

地球上に本当の歴史の全貌を知る人はいないんだ。

歴史の専門家たちだって、そうしたことは十分に承知している。

承知してはいるけれど、今は未だ史実を証明する術も無いし、本当に必要とされているニーズもないから、推測や権力者への忖度による不実を発表せざるを得ないでいるんだね。

一例を挙げれば、日本の縄文時代の生活ぶりについてだって、考古学者が遺跡から推定して、「たぶん、こういう暮らしぶりだったんだろうなあ」って想像した住居が三次元の形にされただけでしょ。

そんなのは復元じゃなくて空想(による創作)だよね。

だから、実際の暮らしぶりが写真や映像に残されているわけでもないのに、一部の専門家による想像の産物を見聞したことを以て、「ああ、縄文時代の人たちはこんな家に住んでたんだなあ」なんて思うのは、実は他人の想像を鵜呑みにしているだけの浅はかな行為なんだよ。

ぼくたちから言えば、今日に至る歴史的史実とされているほとんどのことは、過去の専門家たちの創作物語に過ぎないのだから、そのことを理解したうえで話半分に聞いておいて、大きな流れだけを理解すればいい。

“織田信長はどのような経緯で殺されたか”とか、”イエスキリストが磔刑で死すことなく日本に辿り着いて生涯を終えたというのは事実か否か”とか、”高天原が実際には何処にあったか”なんてことは、実はどうでもいいことなんだ。(次回に続く)