(前回の続き)
陸上(肉体性)の愛と大海(いのち)の愛
自分の想いの動きが自己都合に基づくものなのか、真愛に基づくものなのかは、肉体に張り付いた常識を元に見る想いには見分けが付かないでしょ。
だから今から、それを見極めるための話をしよう。
それはね、自身の愛の心を水に喩えて観ることだよ。
世界中の何処の大地にあっても、水は山から湧き出て大海原へと流れ着くでしょ。
端的にいえば、自分の愛が河川や湖にある淡水の意識か、大海原に充ち満ちた海水の意識かを観ればいいんだ。
自分の意識を占める「好き」が簡単に引っくり返って「嫌い」になったり、自分の心を占める「愛してる」が事と次第によっては手のひらを返したように「愛せない」に心変わりしがちならば、それはすぐにも陸の上にあがって干上がってしまうような陸上の愛だといえる。
逆に、自らの心を占める「好き」や『愛してる」が、相手の"どんな理不尽な言動行為"や"自己都合を左右する状況の変化"にさらされてさえも、けっして色褪せることなく輝きを放ちつづけているものならば、それは紛う方なき真愛の意識、大海の愛だといえるんだよ。
水の三態の如く意識を循環させて生きよう
自らの意識が大海原のただ中に在るものならば、どんな事と次第によってさえも、気持ちが陸にあがって乾いてしまうことがない。
手のひらを返すべき陸がそばにないからね。
きみたちの世界では、「熱しやすく冷めやすい」なんて言葉があるけれど、真愛の持ち主だけが常住することが出来る神域の意識階層では、意識は簡単に燃え上がることもないし、すぐに冷え込むこともない。
唯々、静かに空間を充たしてすべてを慈しむだけだ。
愛の意識ってのは、常にいのちの源流から絶えることなくコンコンと湧き上がっては大海原を充たし、役割を終えた愛は蒸発して天に還元しては、慈愛の雨となって地に降り注ぐ水のようなものなんだよ。
それは永遠の愛の循環を意味してるんだな。
地球の歴史における"今"という時代は、そういう『肉体性の淡水意識』と『神性の海水意識』を同時に体験できる、またとない極めて稀な時代なんだ。
そういう意味でも現代は『汽水域の時代』だといえる。
「水の三態」って言葉を聞いたことがあるでしょ。
固体・液体・気体って呼ばれるあれだよ。
水ってのは、人為的な作用を加えずとも、どんな自然環境の中にあってさえも、その三態の間を行ったり来たりしながら空間に充ち満ちている。
考えてごらん。水ほど不思議な存在はない。
それで、愛を喩え表わすのに水ほど適したものはないといえる。
人体が生命を維持するためにも、体内の水分は必要不可欠なものでしょ。
体内からかぎりなく水分が蒸発して失くなってしまったらどう?
ミイラだ。
これからの時代を生き抜くためには、どんな人もいつかの時点で選択する必要があるんだよ。
水分を絶やすことなく新陳代謝しつづける心を維持した精神をもって生きるのか、あくまで新陳代謝を拒絶しやがて干からびゆく運命の思念にしがみ付いて生きてくのかをね。
その決断は早いに越したことはない。
真愛に充ち満ちた世界をつくるのもその世界を生きるのも、ほかの誰でもないきみ自身なのだからね。
(おわり)