肉体に張り付いた死生観と霊なるいのちの波動体としての人間観
今日は、きみが日本国という島国に住めていることの意義について、今一度振り返ってみよう。
その前に、きみが手放せそうで手放せない常識観念を揺さぶっておくね。
なんでそんなことする必要があるのかっていうと、きみが【抜けそうで抜けない乳歯のような"肉体に張り付いた死生観"】を手放して、これからの人生を意識エネルギーを自由自在に駆使して運命創造出来るようになるためだよ。
いいかい?
きみが住む世界では、世界中のどんな地域に生まれた人のなかでも、表面的には"自分が誕生すべき両親や家族となる人たちを選べないし、ましてや国や地域を選ぶことは出来ない"と思われてるでしょ。
それはある面から見れば正しく、違う面から観れば正しくない。
どういうことかっていうと、"肉体人間観を基にした死生観"の立場に立てば肯けるということであり、人間の本来性を"霊なるいのちの波動体"と観れば肯けないということなんだ。
その中の"肉体人間観を基にした死生観"ってのは、「運命は容易に変えることなんか出来ない」っていう"悲観的運命論の牢獄"に自らを閉じ込めた『肉体性人類の潜在意識を占める先入観的概念』だよ。
それは、現代社会の一部に「親ガチャ」って概念が浸透していて、その考えに立つ人たちの想いが「納得は出来ないけど受け入れざるを得ないもんだ」って中途半端な諦念に支配されてしまってることを見ても分かるでしょ。
また逆に、人間の本来性を"霊なるいのちの波動体"として観る立場ってのは、人として誕生する存在のすべてを、『たくさんのあの世の天地と現象界の間を行ったり来たりしながら進化してゆく者』と観ることをいう。
かなり大まかな分け方だけど、「自分が誕生することになる両親や家族や国や地域を選べるか選べないか?」って話ひとつ取っても、そのようにまったく異なる二つの立場に立つ人たちが混在してるのが肉体界なんだ。
出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ない
ぼくたちと縁があるきみは後者だと思うからその前提で話すけど、本当の真理を大上段から言えば、『運命は後天的に変えることが出来ると思えるなら必ず変えられる』し、「人は先天的要素のしがらみからは決して逃れることが出来ない生き物なんだ」って思い込みのドラム缶の中に"自己認識をコンクリート詰めにしてる"人は、いつまで経っても運命を変えることが出来ないまんま、失意のうちにその生涯を終えてくことになる。
そう聞くと切ない気持ちになるかも知れないけど、それは単なる有りのままの事実で、全地球人類が自らの認識に基づいた"思い通りの生"を営んでるんだ。
だから言うでしょ。「地球の人の中には、望み通りではないけど思い通りの人生を歩んでる人が多い」って。
ホントのことをいえばどんなことも、出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ない。
またそこにはもう一つの見方があって、人は為すべきことは必ず成すようになってるし、為すべきでないことは 行動に移すことはない。
そこからいえることは、きみが脳裏に画く「あれをしたい」「こうなりたい」って想いは、出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ないということだよ。
自分の世界を変える一番の秘訣は、『光明性の自らの本来性』を信じて心と体を動かすことだ。
そうしさえすれば、「変えられるはずがない」と思ってた分厚い鉄の扉さえも簡単に開くことが出来るんだよ。
(次回に続く)