言葉に出来ない体験
『言葉に出来ない』体験を、きみは人生のなかでいくつ経験してきただろうか?それは、言葉が何の役にも立たない瞬間であり、心が口よりも雄弁に真実を語る瞬間だともいえる。例えばそれは、愛しい人を看取った今際の時間であったり、言い知れぬ絶望や悲しみに打ちひしがれたときなんかだね。
そのような時に人は、普段は表面化しない潜在意識の自分を見たり、その更に奥にある神霊意識から発せられたインスピレーションを得ることにもなる。
日常を無意識的に過ごしていたり、忙しい家事や仕事に忙殺されてたりするときなんかには、心が口より雄弁に真実を語ることはないでしょ。そのような時には、ただ肉体表層にペッタリと張り付いた記憶と想念習慣だけが自分自身として、グルグル同じところをまわりながら自覚されてるだけだもんね。
言葉を失うような体験は、人生のなかでそうたくさん経験するものではないけど、だからこそ、自分の力ではどうにも出来ないことや人間界の知見ではいかんともしがたい出来事や状況に直面したときなんかに、「嗚呼、今がそのときなんだな」って思って、心の声に耳をかたむけるといいんだ。
哲学的探求
そのためには、いつも言うけど人は時には、「この命はどこから来てどこへ帰ってゆくのだろう?」とか、「私は何者なのか?」とか、「人は何のために生きてゆくべきか?」「果たしてこんなふうに、食べて寝て、働いて休んで、くっ付いて離れてを繰り返してるだけでいいんだろうか?」といった問いかけを能動的に自らに発して、奥の自分がそれに答える練習をするといい。
場合によっては、なかなか明確な答えがすぐに出てこないかも知れないけれどね。
それは哲学の領域の入口なんだよ。言い換えればそれは、生命原理を身に修めてゆく姿だともいえる。
そうしてるうちにいつの間にか、 俯瞰的な意識視野 を自分の当たり前にしてゆけるんだ。そうしてたらやがていつか、普段は表面化しない奥の自分と常時交流出来るようになるんだよ。
そうなったなら次の段階として、"本当の自分"と"自分だと思い込んでた偽りの自分"の区別が出来るように練習するといい。
本当の自分ってのは、いのちそのものの光体意識のことで、その意識は肉体を離れてどんな世界に行っても自らを生かす力なんだ。多くの地球人が今、その真相を忘れてるけど、その実、世界中で今、次から次へとその事実をつかみ始めてる人が現れ始めてもいるんだよ。(次回に続く)