(前回の続き)
内なる宇宙が展開してる世界とは
この世が『内なる宇宙が展開してる世界』だというのは、肉体の感覚器官で感知した記憶を元に世界を見ている想いの塊にとっては、なかなか頷けない話かも知れない。
なぜなら、その人たちにとっての世界というのは、目で見え、耳で聞こえ、鼻で嗅げ、口で味わえ、手で触れることの出来る世界だからだ。
見えも聞こえも触れもしないものが、実在だとは夢にも思えないんだな。
でもね、どんな人も否定できない事実がここにある。
それは、見たものや聞いたこと、嗅いだ匂いや味わったもの、手や皮膚で触れたものに対して、これはこうだとか、あれはああだとか規定して評価を下しているのは、ほかの誰でもない自分自身の想いだということだよ。
仮に誰かの著書やお話を読んだり聞いたりして、その発信者の考えに同調していたとしても、それを自分の考えとして取り入れる決断を下したのは自分でしょ。
もっとシビアでせっぱ詰まった状況を見てみようか。
国家や何らかの団体による洗脳を受けて一般常識を逸脱し、周囲から鼻をつままれながら見られてる人たちも、洗脳を受け入れる最終的な選択権はその人自身にあるから、それも自己責任だといえるんだよ。厳しい話かも知れないけどね。
ここで誤解のないように言っておくけど、だから良いとか悪いとか言ってるんじゃないんだよ。
それは、魂を進化させるために必要な道のりを歩いているというだけのことで、善悪正邪の刀で二元論的に切って捨てられることじゃあないんだ。
想いが世界をつくっている実例
それを地球上のほとんどの人が自分や他人に対して、ただ表面の部分だけを見て、いいとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか、上だとか下だとか、右だとか左だとか決め付けてるんだ。
前にも話したけど、例えばここにAさんという人がいるとするでしょ。
その人のことを、Bさん、Cさん、Dさんがうわさ話してるとしよう。
Bさんは、Aさんのことを気に入っていて、「あの人はいい人だ」と言っている。
Cさんは、Aさんのことが苦手で、「あの人はちょっと…」って言葉尻を濁して、嫌悪感をあらわにしている。
Dさんは、Aさんにことさらなんの思い入れもなくって、「ああ、あの人ね」って、BさんにもCさんにも同調しないでいる。
その現場だけを見て、きみはAさんの人となりやその全貌について、正しく見ることが出来ると思う?
一つだけハッキリしていることは、BさんにとってのAさんも、CさんにとってのAさんも、DさんにとってのAさんも、その人たちにとっては真実だということだよ。
もっと正確に言うと、BさんもCさんもDさんも、自分というフィルターを通して見た特定の人物像を、勝手にAさんに投影して見てるだけだということなんだ。
ここで質問だよ。
どうして複数の人が同じ人を見て、それぞれに異なる感想を抱くんだろうねぇ?
目を閉じていのちに聞いてごらん。
そのとき、想念領域の何階層も奥から響いてくる答えこそが、「I」「My」「Me」の想いの塊から「We」「Our」「Us」の統合意識へと脱皮する鍵なんだよ。(次回に続く)