(前回の続き)
「新生」と「ウォークイン」の違い
ぼくたちが言う『生きながらにして生まれ変わる』ってのは、一言でいえば「新生」という言葉で言い表すことが出来る。
それに似たような話として、スピリチュアル界隈で話題になることがある「ウォークイン」という現象があるね。
彼らはそれを、"生きながらにして魂が入れ替わること"だと理解している。
でもそれも厳密にいえば、ホントに魂が入れ替わったってケースは少ないんだよ。
どういうことかというと、以前に「今生の肉体に転生するにあたっては、ほとんどの人が複合霊として複数の霊系統を持って生まれて来てる」って話したことがあったでしょ。
例えばほとんどの人は、B・C・Dという霊界の人たちがAという人の魂として一つに纏められて、一人の人間として産まれてくるような形で生きてるんだ。
そのとき一つの魂に纏められるパターンを大まかに説明すると、比較的上根の霊人とどうにも手のかかる霊人二・三人が程よくブレンドされて産まれてくる。
その場合に、最初に現れてた性格や人間性がBメインなのだとしたら、CなりDなりが後から表面化するケースがままあるということなの。
でもそれは、ぼくたちが勧める「新生」とはまったくもって違う話だ。
ぼくたちが言う『新生』というのは、文字通り「新しく生きる」ということで、「神性を甦らせた意識で新たに生きる」って意味なんだ。
それはさっきの複合霊の話でいえば、AでもBでもCでもDでもなく、『B・C・Dが持つそれぞれの性質が"一ついのち"の存在として統合調和された全く新鮮なAが、いのちの本質を生きている状態』だ。
この世(現象界)という舞台を成功させるには
「命は何処から来て、ここで何をして、何処へ帰るんだろう?」
「私たちはなんのために産まれて来たのか」
「生きることの意義って何だろう?」
「死んだら人はどうなるんだろう?」
「宇宙とあらゆるいのちの関係はいったいどうなってんだろう?」
挙げたらキリがないけど、そういう哲学的な自己問答こそが、"新生した人格のベースとなる下地"を形成してくれるんだよ。
肉体人間が生きているってのは、あの世の人たちがこの世へ来て、ある一定期間を過ごしていることでしょ。
その際にはみんな、生まれて来る前に抱いた計画があるんだ。
この世をお芝居の舞台、ステージに喩えるならそれは、バックステージにいた人たちが舞台に立つにあたって、何日も何日もお稽古を重ねて、その練習の成果を発揮するのが本番のステージだといえる。
そこに複合霊の話を加味して観ると、この世ってのは、二人羽織や三人羽織で行なう舞台だといえる。
複数の人が息を合わせなきゃ上手く演技できないでしょ。
それがさっき言った『B・C・Dが持つそれぞれの性質が"一ついのち"の存在として統合調和された全く新鮮なAになる』ってことなんだよ。
それで台本にあたるのが何回も何回も繰り返した"過去世の想念習慣"であり、アドリブにあたるのが『今この瞬間に意識的に顕す神性意識』なんだ。
意識・想念・心ってのは、意識的に用いなければついつい習慣の想いに流されてしまって、新鮮味に欠けた生き様になってしまうでしょ。
そういう意味で、この世という舞台では、神性に根ざしたアドリブこそがその役者の腕だといえるんだよ。
(次回に続く)