独善の境涯
ホントにいい人たちには、『心が底抜けに明るい』という共通項がある。
でも「あの人、いい人なんだけど、なんか明るく感じられないね」って人の場合、思い込みの理論武装でシッカリと鎧を固めてしまってて、他人との間に見えない壁を造り、社会や世界とさえも対峙してたりする。
それは、「こうあるべき」とか「どうでなければならない」とかいう類の想念に凝り固まって、心が自由になれてない状態だといえる。
だから底抜けの明るさが表面化してなくって、常に無用の批判や非難で心が曇ってる状態なんだな。
善人と自他ともに認めるような人のなかには、案外とそういう人が多いんだよ。
そういう場合、本人が「これでいいんだ」って強く思い込んでるから、なかなかその境涯を抜け出すことが出来ない。
『他人を変えるなんて出来ない。変えられるのは自分だけだ』ってよく言うでしょ。
それは本当の真理。
でも人間が陥りやすい『独善の境涯』では、その真理にフィルターがかかってしまって真実を曲解してしまうんだ。
「他人を変えることは可能だ。是が非でも他人を変えなければならない」ってね。
それは"独りよがりな正義感"が発動してる状態で、その思い込みこそが、他人との間に見えない壁を造り、社会や世界全体との根本的な一体感を邪魔してるんだ。
真に人間を知る
「こうあらねばならない」「どうあるべきだ」って理想は、その想いを発したその人自身をある程度の境涯まで意識進化させる力があるけれど、その想いに溺れてしまうと真の謙虚さを忘れてしまって、誰も彼もを「そうあるべき」って縛りつけるようになってしまうんだ。
いつも言うけど、人が表す想念言動行為には、それをしたそれぞれの明確な原因がある。
地球上では、「なんであの人、あんなことするんだ」って他者評価の竜巻があちこちで発生してるけど、それは人間というものを知らない無知から来てるんだよ。
じゃあ人間を知るにはどうしたらいいかって話だよね。
さあ考えてみよう。
人間を真に知るにはどうしたらいいと思う?
そう、いのちを知ることであり、そのためには『自分自身をよく知ること』なんだ。
他人に感じる想いの中で"自らの感情が揺さぶられる類の想い"は、ことごとくが他人を鏡として自らの不調和を映し出して見てるんだって話すでしょ。
それは本当にただの事実で、それを事実として認められるまでは、その人の心から心の雲が晴れることはない。
人間ってのは本当は、晴れ渡った空のように何処までも広く大きな深い意識を湛えたものなんだよ。
でも、各種の思い込みが信念と呼べるまでに強化されてしまってる人は、その想いの癖が暗雲となって心の空に垂れ込めてしまって、その広い心本来の在り方を忘れてしまって、せせこましい人物に成り下がっちゃってるんだな。
(次回に続く)