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Voice of brothers 10 想いの肌触りと喜怒哀楽の奥行き

★想いの肌触りについて

想いに“肌触りの違い”があることは理解できるかなぁ?ちょっと目を閉じてイメージしてみて。

うん、そうだね。きみから今、「カルマと神性の違いを言ってるのかな」って伝わってきたけど、見事ご名答だよ。

『想いの肌触り』には、大きく分けると二つあってね、湿った想い・ジメジメした想いと、カラッとした想い・サラサラした想いの二通りに分けて観ることが出来るんだ。

★喜怒哀楽の奥行き

じゃあ次の質問だよ。きみたちの国語のなかに、『喜怒哀楽』という言葉があるよね。その『喜怒哀楽』に、次元の奥行きがあることはわかるかなぁ?

わからない?

うん、じゃあねぇ、そうだなぁ、どう話したら伝えられるかなぁ。

『喜怒哀楽』の《喜》、喜びには大別して、肉体に貼り付いた、自他を別に観る想いに立った喜びと、生命そのものが喜んでる、いのちからの喜びがあるんだけど、わかるかなぁ。

うん、それと同じようにね、『喜怒哀楽』の《怒》、怒りと表現する言葉にも、奥行きがあってね、肉体が自分だと思っている感情想念で怒っているレベルの怒りと、いのちそのものがっている愛の叱咤しったがあるんだよ。

そのように観てゆくと、『喜怒哀楽』の《哀》にも《楽》にも奥行きがあることがわかってくるでしょ。

例えば《哀》には、肉体に貼り付いて悲しんでいる想いもあれば、もう少し奥の意識で同情心をもって哀しんでいる想いもある。そのさらにもっと奥を観れば、いのちそのものが肉体界をかなしんで観ている、慈しみの《哀》もある。

“かなしみ”ということばの枝葉を表面からだけ観れば、そんな奥行きがあることなんて、思いもよらないだろうけれど、意識が《いのちの光》の立ち位置にいれば、そのようなこともわかってくるようになるんだよ。

そして、『喜怒哀楽』最後の《楽》にも、自他を分離した者と観る想いで、自分自身が楽しんでいる、楽しいと思ってる《楽》もあれば、いのちそのものが楽しんでいる《楽》もある。

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★いのちとカルマの見分けがつくと

そのように、喜怒哀楽の奥行きがわかるようになると、人間の真実のこころ・生命意識と、本質を忘れた想い・カルマ想念の見分け・識別が出来やすくなるんだ。そうなってくると、生きることがとても楽になって、しょっちゅう誰かの言動行為に引っかかって、批判や非難の評価ばかり下していたのが、いつの間にかいちいち関知しなくなって、とらわれないようになるんだよ。

そこで最初に、きみに問いかけた『想いの肌触り』の話に戻るんだけど、自分の想いがジメジメしてるか、サラサラしてるかをいつも観察して、常時サラサラ感が持続するように、気を付けてゆくといいんだよ。

★想いのサラサラ感を持続する方法

そのための一番簡単な、誰にでも出来やすい方法は、「あっ、ジメジメしてるな」って、自分で思ったら、無意識のときの呼吸の速さを基準にして、その5倍から7倍くらいの速さで吸ったり吐いたりするように、呼吸をコントロールすることがいいんだよ。

そうするとね、ジメジメしていた『想いの肌触り』が、すぐにサラサラな感触に戻って、自分をも他人をも、批判したり非難したりしなくなって、《こころの空》を曇らせることが無くなってくるんだよ。

これはもうね、毎日の練習でね、日々たゆみなく繰り返して練習していさえすれば、サラサラした想い・意識でいられる時間が長くなるからやってみて。面白いように、自分が変わるからね。