★真理と表現の差異を縮めよう
いのちの自分と肉体我がピタッと一つになって生きる日が来るまでは、自分の見たこと、聴いたこと、触れたことなどを他人に伝える際に、どうしても事実と表現の間にズレが生じてしまうということがあるでしょ。
それは色に例えて話すとわかりやすいんだけど、生命根源の真理の色がすべての色を統合した白光色としたら、きみたちの心身というフィルターを経由して伝えられる真理の色は、必ずしもそのままの色を発していないんだよ。
それはなぜかというと、個々人の持つ「こうに違いない」「こうあるべきだ」「こうあってほしい」といった思い込みのフィルター色が入るから、どうしても真理そのものの色ときみたちの発する色との間に差異が生じてしまうんだね。
だから人は、他人の話を聴くときはそのことを考慮に入れて聴かなきゃいけないし、自分が人にお話しするときには、極力個我を滅して真理そのものの響きを発することの出来る自分であるように、みずからを磨き深める日常を過ごさなければいけないんだよ。
人というのは、どこまで立派になっても、もうこれ以上立派にならなくていい、という到達点のない生物だからね。
★カルマは貧しくいのちの光を豊かに生きよう
自分が自分で「私は思い通りに意識進化できてる」と思っていたとしてさえも、みずからを真理そのものに同化する努力を怠ってはいけないよ。
いつも謙虚に自省して、心をピカピカに磨き上げてゆくんだ。
そういう人の心にこそ、宇宙の真理は全き発光を成す。
いいね。
どうか今日の話を忘れないで。
油断や慢心の種を心の大地に埋めている人は、それが地中で育ってるのに気付かないでいて、気付いたときには過ちを犯した後だったってことが往々にしてあるんだよ。
それらはいわゆる肉体付随のカルマで、想いの大地に根を張ってしまったが最後、ものすごい勢いできみたちの理性を押し流して、衝動のままに自己を操ろうとする。
そんなとき人は、流されるがままに行動してしまってて、多くの場合には、後になって反省するのが落ちでしょ。
とくにそれが、自分が真理だと信じ込んだことなら、なおさらたちが悪くって、その人がみずからを正すのはかなり先のことになりがちなんだ。
だから心はいつもへりくだっていて、「あの人は謙虚すぎる」って思われるくらいでちょうどいいんだよ。
自己にまつわるカルマを貧しくしつつ、いのちの光を富ませよう。
そういう人こそ、真の智者といえるのだからね。