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(前回の続き)
★真の自己を確立するために
だいたい、外的条件の変化によって幸せを感じたり、ひるがえって不幸せを感じたりしているだなんてのは、実際問題として意識レベルがまだまだ低いと言わざるを得ないね。
どうしてかというと、そんな心境で感じることの出来る幸せなんてのは、吹けば飛ぶような儚い幸せだからだよ。
そんなしょうもない幸せを追い求めることになんの意味があるの?
周りに左右され、あげく翻弄されるばかりの幸せしか思い浮かばない、望めないというのは、ハッキリ言えば、人としての"自己の確立"が成されていないからなんだよ。
違う言い方をすれば、そういうのは、顔にシワが刻まれて、酸いも甘いもかみ分け尽くしてきたはずの高齢者が、人としての人格形成が成されていないということだ。
自己の確立が成されていない(=人格形成が成されていない)ってのを、粘土で人形をこしらえるのに例えたら、まだ全然人体の形も出来ていない、でこぼこな土の塊のままだということなんだ。
でも、実際のお年寄り方はみんな、物事を知ったような顔をしているね。
それはどういうことだと思う?
ウンウン、ご明察。
先人のつくった前例や常識というテンプレートを、考えも無しに安易にコピペして生きてるんだね。
「何歳になったらどう振る舞ってるだろう」
「幾つになったらああなっているだろう」
「齢をとったら体にガタが来るものだ」
「うちは癌の家系だから、自分もいずれはそうなるのではないか」
数え上げたら切りが無いけど、そうした記憶の雛形をなぞって生きてるだけの人が大半なんだよ。
★外的条件に左右されない幸せを探究しよう
若い時分にはフレッシュマンだった人たちも、そのうち多くの人たちが、四十代、五十代を経て、六十代に入る頃には、タヌキやガマガエルに比喩されるような、老獪な人物になってゆくね。
ごく一部、少女や少年の頃の瑞々しい感性を維持したまま老齢に入ってる人もいるけれど、ほとんどの年配者は、残念ながら悪しき前例をコピペしただけの、中身がスカスカな老人になってるんだ。
そんな人たちが若い世代の人たちに、いったい何を残せるのかを考えてごらん。
今その年代じゃない人たちだって、いずれは当事者になってくんだよ。
「光陰矢のごとし」っていうでしょ。
人の一生なんてのは、宇宙から観れば、ほんの一瞬の、瞬き一回するかしないかくらいの、つかの間のことなんだよ。
「オレ(ワタシ)には関係ない」だなんて思ってる人は、自分がいざその立場になったら、骨身に染みて後悔することになるんだから、若いうちに自分の生き方を省みて、身の振り方を軌道修正しておいたほうがいいね。
要は、外的条件に左右されない幸せというのはどういうものかを探究することだよ。
それを若いときから習い性にするんだ。
それこそが、意識進化するための土台になるんだよ。(次回に続く)