(前回の続き)
「なぜ人は特定の人物に対して異なる感想を抱くのか?」の答え
答えからまず話そうね。
「ひとりひとりの魂の宿題が千差万別だから」だよ。
何でそれが他人と関係あるかって?
それは、人ってのは部分的な自分への評価を他人に映し出して見てるからだよ。
それは五感に感じることのうち、とくに視覚と聴覚に顕著に表れてる。
だから人は、相手にジャッジを下しているように見えて、実は、自分の想念の偏りを自身に教えてるんだ。
その事実に気が付くのは、いろんな輪廻転生を経て様々な経験を積んだりなんかした後の『長い放蕩の旅の末』なんだけどね。
飲み込めるまで何度でもかみ砕いて話すけど、他人に感じる想いというのはね、ひとつの例外もなく自分に対する一面的な評価なんだよ。
ここでとくに注目してほしいのは、「一面的な」という言葉ね。
「自分に対する一面的な評価」という言葉が何を意味してるのかを、じっくりと時間をかけて咀嚼するんだ。
そう、そう。そうだよ、いのちに初めから具わっている神性を眠らせてる意識状態下にいる場合は、全体像が見えないで一部を見て全体のように勘違いしがちなんだ。
それはあたかも、蟻が象のシッポだけを見て、象の全体像だと思い違いすることに似てる。
まあ、それは言ってみれば、【波動が精妙な世界を開拓し終えた星(進化した星)から転籍した新しい惑星で、そこに波動が粗い世界を開拓してゆきながらその星の世界に大調和天地を創造する】という『惑星開発プログラム』の進捗状況のなかで、宇宙人類が陥りやすい落とし穴だともいえる。
それをまったく別な面から観ると、他の星からその惑星に転籍した人たちが、自分たちが元々神聖なる存在だったという事実を一時的に忘れてしまうという状況が、実は、宇宙創造意識(生命の源)によってDNAに組み込まれた規定のプログラムだったということことだよ。
だからいのちの大親である宇宙大生命は、ひとりひとりの人類に守護霊や守護神という、外面的守護の働きを魂のうちに内蔵させたんだ。
お尻に火が付く前に全体視野の練習をしよう
話が脱線したね。閑話休題。
一部を見て全体のように思ってしまう意識を、どうしたらバードアイズビューのように俯瞰してみることが出来るようになるか。
これは、これからの地球人類に共通した喫緊の課題になってゆくだろう。
なぜなら、神性を発揮しなければ生きながらえることが出来ない世界に変わってくからだよ。
もうすでに、そうなってる人や地域もある。
そういうお尻に火が付く体験をした人は、全体のなかではまだ少ないけど、これからみんなが経験することになるよ。
ホントは、お尻に火が付く事態になる前に、事前に生命の本質を自覚して生きる練習をしておくほうがいいんだけどね。
さあ、本題に入るよ。
俯瞰的視野を身に付けるためには、一面を見たときに、その反対面の自分もいることを自覚する練習をするといい。
例えば、自分を赦してない自分を見つけたら、自分に赦されてない自分も見つけて、双方を抱きしめてあげるんだ。
自分に愛されてない自分を見たら、自分を愛してない自分がいることも同時に自覚して、その両方の自分を抱擁してあげるといい。
人は誰でも自分のなかに、加害者的自分と被害者的自分がいる。
その事実こそが、地球界における生きとし生けるものの有り様が弱肉強食の原理で動くようになってしまった根本の原因なんだよ。(次回に続く)