★人の世をギスギスさせる過剰反応
世の中には、何十人かに一人くらいの割合で、他の人の言動行為に対して廻りに違和感を与えるほど行き過ぎた反応行為をする人がいるでしょ。
「なんであんなに過敏な反応をするんだろう?」って思うようなやつだよ。
それで、その矛先が自分に向けられたものでない場合には、多くの場合にそういう言動に対して、多少は不愉快な気持ちになることがあっても、「そんな反応をする人もいるんだな」くらいの気持ちで見過ごしてるけれど、その矛先がいざ自分に向かってきたときには、見過ごすようなことは出来ないで、嫌な気分が最高潮に膨れあがって、怒りや悲しみのエネルギーを自分の内に溜め込んだり、反対に矛先を向けてきた相手に矛を向け返したりして、反論や反発の応酬みたいになることがあるね。
例えば親なんかから、「あんたはいつもやるべき事を後回しにして、後で追い込まれてアップアップしてるんだから、ゲームなんかに没頭する前に、予習・復習を先に済ませてしまいなさい」とか言われた子どもが、「うるせーな、後でやるからいいんだよ」なんて、売り言葉に買い言葉みたいな反発の反応をして言い争いになってしまったり、今ごろじゃあ、その果てに殺傷沙汰になるようなこともあるというんでしょ。
SNSなんかで自身の発信にいちいち噛みついて来る人に、その都度過敏に反応する人なんかもそうだね。
相手にしなきゃいいのに、相手にしたばかりに同じ穴のムジナになってしまってるじゃない。
ここで一つだけハッキリと言えることは、どんな世界のいかなることにも反対意見はあるものだということだよ。
極端な話、他の進化した星々に住む人々の間でも様々な意見を持つ人がいて、話し合いで解決するようなこともたくさんあるんだよ。
地球世界もそれは同じことなんだけど、理性に欠けた反応をする人が多くいるから不調和な様相を呈しているというのが、現在までの地球界のあり方だったんだね。
なぜそうなっているかというと、未だ神性の開発され切っていない習慣想念がたくさんあって、そういう想いの持ち主は、たいてい過去のなんらかのトラウマで意識の波動圏がかぎりなく小さく閉ざされてて、その小さな個我の中心でしか自我を叫ぶことができないから、違う意見に対して過敏なまでに反発して、他人とは相容れない狭小な反応をするようなことになってるんだよ。
★ギスギスしないで立派になる方法
それを違う角度からいうと、どういう現象になっているかというと、意識が肉体に張り付いてる状態のときに自分の心の襞に触れられたときにその手を振り払う反応だったり、思い込みの激しい他人の反応に自分のなかの思い込みが響き合ったりしたときなんかにお互いが打ち消し合うことで消し浄め合ってる姿だともいえるんだよ。
またそれを仏教的にいえば、因縁因果の果たされゆく姿だともいえるね。
そのようにこすれ合い、磨き合ってこそ、人類の進化が果たされてきたのが、これまでの地球人類の歩みだったんだけど、今はもうそういう時代じゃないんだよ。
そんなふうに、互いのカルマを無意識にぶつけ合わさなくても、心の中の偏狭な思い込みやこだわりを神性意識に還元して、言行に表す前に調和したものに次元上昇することの出来る方法が開示されたからだよ。
それは、絶えず呼吸をユックリしながら、自分と人類の神性を認める言霊を心の中で想いつづけに想って生きることだよ。
その呼吸の繰り返しのなかでこそ、自分と他人を隔てていたカルマの角質がはがれて来るんだ。
誰ひとりの例外もなくね。
なんでそんなことを誰もが出来るようになったかというと、地球を取り巻く波動圏が霊性の段階に入って、地球が霊化し始めたからだよ。
呼吸をユッタリとしつづける人は、その行為がとりもなおさず、地球世界全体の霊化した波動に心身の波長を合わせてゆくことになっていて、魂の波動圏が知らず知らずのうちに大きくなっているから、他人のどんな反応をも自分のなかの宇宙に起こる出来事として抱きしめて、礼を失した反応をしてきた相手もろとも、神域の波動圏に引き上げるようなことになっているんだよ。
これはもうね、どんな理屈を並べ立てるより前に実行してみることだよ。
実行すれば自分が変わるんだ。
そうすればすべての出来事の奥に横たわってるからくりが透けて観えるから、いちいち突っかかりぶつかり合ってたのが馬鹿らしくなって、理性的に解決する力がつくというわけ。
何はともあれやってごらん。
そうすれば、神性というのが理性の極致にあることがわかるから。
そうやって表した神性意識こそが、よりよい世界を創る原動力なんだからね。