Voice of brothers 199 地球平和と霊位上昇 (2/7)

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(前回の続き)

人の数だけある真実の奥にある真理をつかむために

上下・左右・斜めなどの位置付けというのは、物理的にものを見た場合には、互いが共通の認識を持ちやすい方便的な表現ではあるんだけど、必ずしもそれらは事実を顕した言葉ではない。

なぜなら、そこには次元の奥行きという大切なピースが欠けているからね。

ところで今、「事実」という言葉を使ったけど、今日はちょうどいい機会だから、「事実」の真義についても定義しておこうね。

表面的な事実も真実も真理も、人の数だけのそれらがあるということを覚えておくといい。

それはどういうことかというと、各人が想い信じて(認識して)いることこそが、その人にとっての唯一無二の事実であり、真実であり、真理になっているからだよ。

それは、みんなが互いの違いを認め合って、全地球人類が手に手を取り合って未来を築きあげるうえでの基本認識にもなるんだよ。

どうしてそういうかというと、いつまでも違いに反目し合っていても地球は平和にならないし、違いがあるのに強引に同一視しようとして自分の価値観を押しつけ合っていてもそこには無理が生じるでしょ。

それ以前に、価値観(表面認識)の違いに諦めをいだいていたり、見て見ぬふりをする人ばかりいたなら、いつまで経っても地上は平和にならないよね。

だから、地球を調和した星にするはじめの一歩としては、まずは違いを尊重し合うところから始める必要があるんだ。

そのことをわかりやすい例で説明すると、日本国のお米の代表格と称されているコシヒカリを「美味しい」と感じる人たちは、タイ米などの粘り気が少ないお米には物足りなさを感じて、正直なところ「美味しい」とは思っていないでしょ。

けれども反対に、タイ米に代表されるパサパサしたお米を愛し、食べ慣れている人たちからしてみれば、コシヒカリなどの粘り気のあるお米は、その柔らかさや粘り気がお口に召さなくて、ぶっちゃけた心境としては、こちら側も正直なとこ、他の食味のお米を「美味しい」とは思っていない。

このように嗜好の分かれるものの評価というのは、人や所、生活習慣などが変われば、まったく違った評価になっているものでしょ。

それは、どのお米を美味しいと感じているかが人や地域によって異なっているということで、客観的にどのお米のほうが上で、どのお米が下だと言い切れるものではないことを示している。

あえて評価を下すなら、横一直線の左右に並べて、「こういう品種や食味の違いが同時存在しているんだな」と見て、優劣のレッテルを貼らない見方をすることが、公正なものの見方だといえるね。(次回に続く)