Voice of brothers 256 意思表明をとおした運命創造の学びについて (2/5)

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(前回の続き)

★どうしてそうするのか、そうしたいのかを深く観てゆけば

それで、各人それぞれの人間関係のなかにあって、みずからの意思表示を截然と行えない段階で踏みとどまっている人は、どうして自分がそうなっているのかを、よーく見つめる必要があるね。

そうしたなら観えてくるでしょ。

「あー、”自分が傷つきたくない”っていうエゴをプロテクトする気持ちが原因だったんだな」って……。

それでもっとよく観てゆくと、そんな自分の気持ちを美化しようとする想いの動きが見て取れたりもしてくるでしょ。

「自分がそれを言う(する)ことで、誰かに嫌な想いをさせたくないから、周囲の人のために自分の意思を押し込めて我慢しているんだ。自分はなんにも悪くない」って類の想いがね。

その内観のときに、自分の想いの動きをよーく観察するといい。

“どうしてそうしたいのか”とか、その実現に向けて”自分がどうしてそうしているのか”などをね。

そうすれば、希望することが本当に実現する価値のあることなのか、そうじゃないのかが観えてくるし、その実現に向けて意義のある行動をしているのかどうかも観えてくる。

結論的に言えば、人はみずからが正しいと信じたことは、それが心底からそう思えることならば、誰にも何にも遠慮することなく、そう言えばいいのだし、そう行動すればいいんだよ。

そういうときの意識の用い方としては、我慢も遠慮も不要な慮りおもんばかりだ。

そんなのは、運命創造をしてゆくうえでは、足首に鎖で巻き付けた鉛の重し以外の何ものでもないんだよ。

例えば、きみが何かをしたいと思う。

きみが「〇〇であればよい」と思う。

きみが「よかれ」と思う理想があって、それをホントに実現したいのなら、余計な慮りの足かせを外して、それを想い、語り、行動することだよ。

そうすれば運命が動き出すでしょ。

その過程で誰かの反対があるかも知れないし、誰かを悲しませたり、傷つけたりするようなことがあるかも知れない。

逆に、周囲のみんなが賛意を示して応援してくれるかもしない。

どちらにしても、ここが重要なとこなんだけど、それらに配慮する想いが必要なときと不要なときがあるんだよ。(次回に続く)

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