Voice of brothers 257 意思表明をとおした運命創造の学びについて (3/5)

スポンサーリンク

(前回の続き)

★配慮の要不要に関する様々な事例

配慮が必要なときというのは、自分が「こうしたい」、「こうあればよい」と思う理想が、明らかに自他に不調和をもたらす時だよ。

例えば、極端な例を挙げれば、「口うるさくてウザったいから、親を無きものにしたい」だなんていう、自分勝手な想いに起因している場合などだね。

そんなのは明らかにしちゃいけないことであって、配慮が必要な場面だってわかるでしょ。

それで配慮が不要な場合というのは、例えば、「自分の夢を叶えるためにあの学校(場所)に行って勉強したい」というような、みずからの想い画く理想を実現したい場合などだね。

そういう希望があるときに脳裏に浮かぶ、「自分がこんなこと言ったり行動したりしたら、親が悲しむかも知れない」、「反対するかも知れない」、「だったら親の言うことを聞いて、自分の夢は封印したほうがいいのかな」とかいう想い……、それこそが不要な慮りなんだ。

客観的に観れば、そういうケースで親が悲しんだり反対したりするなんてのは、その実態を深く観察すれば、親のエゴ以外の何ものでもないんだよ。

そういう場合に親が悲しんだり反対したりするのは、どんなに”我が子を想うがゆえ”とか美化してみたところで、子どもの夢を踏みつぶす愚行であることは明らかだ。

だから、そういう場合の子ども側としては、親の反対や様々な感情想念の呪縛を振り払ってでも、みずからの夢を実現するための道に踏み出してもいいんだよ。

ただし、あくまでも自己責任においてね。

何か困ったらすぐに人のせいにしたり、「自分だけは楽をして夢を叶えよう」だなんて甘ったれた気持ちでいる場合や、何から何まで親のスネかじりで事成れりと思っている場合なんかは論外だよ。

それで、そのようなときに親の立場としては、”その子の夢が本気で自立した精神性に基づいたものなら”という但し書き付きだけれども、本当に子どもの未来を想うのならば、その先にたとえどんな困難が見えたとしても、その子に内在しているいのちの可能性を信じてあげて見送り見守ることが、在るべき本来の愛の姿だといえるんだよ。

また、まったく違う例で言えば、会社員が何かのプロジェクトを発案してそれを実現したいと思ったなら、大体の場合は企画書を書いて、社内の様々な手続きを経て、そうして初めてそのプロジェクトが動き出すのでしょ。

たいがいの人は、その最初のプロセスに必要な気力や労力が並大抵のものじゃないから、「どうすればいい、こうすればいい」という理想を想い画きながらも、それを行動に移すことはしないでくすぶっているけど、そんななかにあって、少しだけ勇気が突出した人は行動に出ようとするね。

そのときに、上司の駄目出しや同僚の反対に押されてばかりいたら、事を前に進められないよね。

そういうケースなんかの場合においても、周囲への配慮が必要なときと不要なときがあるんだよ。

配慮が必要なときというのは、そのプロジェクトを起案した最初の動機が「自分の立場をよくしよう」とか、「我が社さえよければ他はどうでもかまわない」などのエゴに起因している場合だね。

反対に、周囲への慮りが不要なときというのは、そのプロジェクトが本当に会社や世の中のために役立つものであると信じられる場合で、世のため人のためにもなり、自分たちの所属する会社の利益にもなると、周囲の人たちを納得させる確信を持てる場合だよ。

そういうときには、その理想の根拠を具体的に示して、誰の反対や妨害をもものともせずに、そのプロジェクトを成功させる方向へ向かって突き進んでゆくといいんだよ。(次回に続く)