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Voice of brothers 401 いのちの成分 〜 非科学的見地からみた話(前編)

★いのちの成分

いのちはどんな成分で出来てると思う?

うん、うん。

アハハ……。

そんな難しい言葉はいらない。

頭でっかちに考えなくたっていいんだよ。

ん?

そうだね、愛だ。

いのちのなかには無限の質量を有する愛が充満していて、『いのち = 愛』、『いのちは愛で出来ている』と言っても過言じゃないんだよ。

きみたちの体の外にもなかにも、間断なく愛が充ち満ちている。

それを宗教は神とか仏とか呼ぶんだけど、すべてを生み出し新陳代謝のなかで成長させて、やがては愛そのものに還元させてゆくその力は、紛れもなくきみたちのなかに在って、きみたちを通して宇宙の進化創造を司ってるんだよ。

この話を逆にきみたちの立場から観れば、『愛から生まれ出た自分たちが愛の働きを思い出して、愛に帰ってゆく(還元してゆく)プロセスのうちに宇宙の進化創造がある』という考えの下に進むのが、人としてあるべき本然の生き方だといえる。

地球に住むすべての人がその事実を虚心坦懐に理解しさえすれば、世の中というのは、一瞬のうちに大調和した神界の様相を写し出すんだよ。

★本末転倒した生き方が常識になった世界の中で

でもなかなかそうはならないのは、一人一人の人間が「生命とは何か?」という、真理の命題に肉体の命をかけて取り組んで来なかったからだ。

それは、自分が自分だと思い込んでいる自我・エゴを守る想いの動きに押し流されて、三次元世界を漂流しつづけてきたからね。

そういう人たちを観ていると、みんな共通した想いをいだいてるのが見て取れる。

「自分たちは漂流してるのが当たり前、人間だからこそ悩み苦しんだり、喜怒哀楽に翻弄されて当然なんだ」ってね。

そういうのを『錯覚した生き方』、『倒錯した思考』、『転倒妄想した粘着質な思念』というんだよ。

要は、ドブん中に頭を突っ込んで、逆立ちして宇宙を見ちゃってるんだ。

そうだからこそきみには、「表面的に人と人とが交流する場面では、あえて真理を振りかざさないで、その人々の常識に合わせた振る舞いをしながら、実の心の芯では、すべての本質に神性を認める意識の使い方をしているといい」って話すんだ。

ある特定な場面においては、何ごと何ものにもおもんばからずに自分の考えを推し進めることがあっていいけれど、それとは違う多くの場面においては、『自分が正しいと思う考えを引っ込めて、全体の調和を優先しながら(カルマと対立するんじゃなく)彼らの波に合わせて動きつつ、実は彼らを抱きしめ、共に天に還元してゆく』というのが、愛を発現した人の生き方なんだよ。(次回に続く)

 

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