★魂が幼少期にある人間の特徴
魂が幼少期のときには、人は何かにつけて誰かに自分を認めてもらいたがるものだよね。
それで三界の空間中には、「私を見て」「自分を認めて」って類の無数の思念線があてどなく宙を舞い、地を這っているんだよ。(思念線とはX線よりも細かい波長の電磁波の一種)
そうみんなが願っていながら、地上でそれらの想いがほとんど成就されないでいるのは、「認められたい」という想いを発する出発点とその向かうべき角度・方向が根本的に間違っているから、満たされない欠乏感ばかり増産してしまって、それらがどんどん集合意識として結合してしまってるからなんだ。
その果てに彼らが行く着くのは、横取りによる欠乏感の充足だよ。
それで、その集合意識の波動圏内に生きている一部の人は、「愛は惜しみなく奪うもの」だなんて戯言にそそのかされて、奪い奪われ、逃げ追いかけの、動物的意識次元に定住してしまっているね。
このことに関しての真理を言えば、本来「愛は惜しみなく与えるもの」で、その与えるべきものは金品や表面的な思いやり・やさしさなどではなく、その人自身の力で豊かさを産み出すことのできる生命エネルギー、すべてを創造する元の気を湧きあがらせる生命源光なんだよ。
このことは後の話につながるから、心の片隅にインプットしておいてね。
それで、最初に魂の幼少期って言ったけど、それがどういう状況かってことは、地球上での幼児たちを大人目線で見れば一目瞭然でしょ。
幼い子どもたちはみんな、意識無意識にかかわらず、「自分を認めてもらいたい」って承認欲求が強いものだよね。
一見してそうじゃないように見える自閉的性質を持つ子どもたちでさえ、過去世を含む認められなかった過去の記憶に支配されて、醒めたような諦めたような人格になってるだけなんだから、みんな認めてもらいたがっていることには変わりがないんだよ。
それで人は誰でも、認められることで自信がついて、できることの範囲を拡げてゆくようなとこがあるでしょ。
それは、人が成長するためには、愛が最高の栄養分だからだよ。
「認めてもらいたい」って想いは、言葉を換えれば「愛されたい」って想いでもある。
それで、表れの命が総じて望んでいることを言葉にすれば、「私は慈しみ愛されることを切に所望しています」ってことでね。
表れとしては誰もが、意識無意識にかかわらず、慈しみ愛されることを渇望しているんだよ。
それは、植物が太陽に向かって伸びてゆくような、生命の本質的な理だから、そう思うことがいい悪いじゃあないんだね。(次回に続く)