★火に油を注ぎながら水をかけるような祈り方を卒業しよう
今日は祈り方に関して、改めて話しておきたいことがあってコンタクトした。
どういうことかというと、きみたちの日常を観ていて、祈りと念力を混同してしまってる場合があるということだよ。
祈りというのを、自分に都合いい状態を引き寄せる道具だと勘違いしているケースがあるんだね。
そのような意識状態でいるときには、思念の力でイメージすることを引き付けて現実化しようとしているがために、対立軸にある想念波動をも刺激して、みずからを二極化した二元対立の世界から抜け出しがたくしてしまってるんだよ。
それは、悪を認めながら正義を求める心境であり、嫌いなものを認識したうえで好きになろうと努力することであり、汚濁想念に力を与えながら清浄化しようとすることでもある。
それらの行為が無意味な行動であることはわかるかな?
わかんない?
じゃあ、もっとも単純な例で説明しよう。
燃え盛る火に向かって、右手でガソリンを注ぎながら、左手で火消しのための水を注いでいるようなことだよ。
「なんてバカなことを……」って思うでしょ。
そういうのを愚行というんだ。
そしてそれは、特別な一部の人だけがしていることではなく、自己保存的動物感情が人間だと信じてる一般の人たちが、それぞれの立場で思い描いていることでもある。
みんながそうしているとどうなるか、考えたことがあるかい?
表れの不調和にプラスして心の世界にも対立波動が巻き起こって、それが物質人間のいがみ合いとして現象化して、心に戦争を引き起こし、やがては物質界に反映することになるんだよ。
だから、念力と祈りの違いを心底から理解できるようになるまでは、結果を自分勝手にイメージするもんじゃない。
そんなんじゃあ、世間にはびこる底の浅い願望成就念力メソッドとおんなじ土俵に立ってしまうからね。
それで、本来あるべき祈り方のコツというのは、祈りの結果を具体的にイメージしながら行うものじゃあなく、祈り言葉の響きに乗って、神域の波動圏に心身まるごと飛び込んでゆくことだよ。
祈りの言葉というのは本来、真理・大調和・大完成の方向性を指し示す言霊を持った言葉、例えば、“平和”とか“調和”とか“愛”などの言葉をちりばめて、それらの状況が“天に在る(実在する)ごとく地にも成る(映し出される)ことを願うように”発するべきものなんだ。
例えば、「愛深き私でありますように」「地球界が平和でありますように」「調和がこの地に成就しますように」などのようにね。
間違っても、「誰々がどうなりますように」とか、「嫌いなあの人が自分に都合のいい振る舞いをする人に変わりますように」だなんて祈っちゃダメだよ。
それで、祈った結果としての未来の現実がどのような状況であったとしても、すべては最善の方向へ運ばれている事実を絶対的に認識しなければならない。
そうすべきというよりは、最善に至るプロセスしか体験してないってことを、自然のうちに当たり前のように感じられる意識状態でいることがいいんだね。(次回に続く)