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(前回の続き)
★自分を愛し慈しむ人のあり方
そこを誤り解して運用してしまうから、動物的な自己保存の境界に入ってしまって、自己憐憫や責任転嫁の波動圏に住み着いてしまう人が多いんだね。
自分自身のことを、本当に愛し慈しんでる場合には、人は「他人のために自分が犠牲になってる」だなんて思い込むことはないし、なんでもかんでも他人や環境のせいにして、当然為すべき努力を簡単に放棄するような愚行に走ったりなどもしないものなんだよ。
なぜなら、真実に自身を愛し慈しんでる人は、自分のいのちそのものを心底から信頼してるから、他人のためを思いやるがゆえに、自分のやりたいことをその場では引っ込めたとしても、そのことで心のなかに不平不満の想いが頭をもたげたりなどはしないんだ。
どうしてそうなるかというと、自分を真実に愛し、自身に嘘偽りなく愛されている人は、その愛の大きさの分だけ心の波動圏が拡大して、自他を分け隔てする想い方を卒業してるからだよ。
というのはどういうわけかというと、ホントのホントに自分を愛し自分に愛されている人は、自分の心が十二分に満たされているから、心の波動圏の広さが、家族とか、友人知人とか、縁あるすべての人とか、同じ国の同朋とか、世界人類全体とかを包含するまでに広がって、他人の言動行為が自分の心の内の宇宙で起こってる出来事だとわかっているから、昔みたく、あえて自分と他人を分断して対立したものと観る必要性がなくなって、そうした内側の調和した様相が外側の世界にも映って観えるんだ。
★心の奥の大海に溶け広がる方法
他人として現れているいのちも、自分自身のいのちも、元を辿れば宇宙心(神・芯・真)という、大きないのちの大海原のなかで"ひとついのちの存在"であるということはわかるでしょ。
人の心というのは、意識が拡大していのちの元に近づけば近づくほど、エゴとかカルマ想念といった自己都合に片寄った想いが薄れてくるんだよ。
心がエゴに張り付いている場合には、そこへ向かおうとしたときに、自己保存の習性想念から発される多大なる抵抗(攻撃と防御)を受けるんだ。
そこを乗り超えてこそ、生命の大海へと漕ぎ出ることが出来るんだけど、今までの世界では、たいがいの人がそこでエゴの抵抗に屈して、カルマ想念の手下に成り下がってたんだね。
そういうことをすべてわかったうえで、ぼくたちが伝えていることは、エゴやカルマと戦い勝つ方法ではなく、エゴやカルマを抱きしめて、一緒に心の奥の生命の大海へと溶け広がる方法なんだよ。(次回に続く)