★生命の本体に想いを馳せよう
「イヤだなぁ」って思える他人の言動行為に想いが左右されてしまって、「嗚呼、自分はダメだなぁ。こんなことじゃいけないいけない。でもどうしたら……」って、想いの扱いに困ってしまって、立ち止まっちゃうようなことがあるでしょ。
今日はそんなときに役立つ、とっておきの意識の用い方について話そう。
そういうときには、自分の霊体や神体(肉体の奥にある体)のさらに奥にある光体(いのちの一番奥の波動、宇宙そのものの意識)に想いを馳せて、イメージ出来たらその次に、「自分は肉体で生きてるんじゃなくって、大きな光の体で生きてるんだ。自分は宇宙そのものなんだ」って、心の底から思い込んで、大胆に決めつけちゃえばいいんだよ。
世間の真理の言葉に、「人は自分の思ったとおりの者になる」というのがあるでしょ。
その法則を活用するんだ。
本当は決めつけるも決めつけないも、思い込むも思い込まないもなくって、霊主肉従の生命の実態を当然認識にすれば、それが極めて当たり前の事実であることがわかるんだよ。
肉体と比べれば、霊体や神体だって比較にならないくらい大きなものだけれど、生命究極の本源・大元にまで遡ってみれば、大小深浅の自己卑下がまったく意味をなさないほどのその壮大さのなかで、小さなことにクヨクヨしてたことがまるで嘘のように心が晴れ渡ってくるんだよ。
それは、「自分自身が宇宙そのもので、すべてのすべてだったんだ」ってふうに、究極の事実を思い知るからだよ。
肉体の頭で認識する"有りのままの自分"はちっぽけな意識(というよりは想念の塊)でも、"在るがままの自分"は果てしなく大きく、あらゆる銀河系をも体内に治める宇宙意識なんだ。
自分というものは空間そのものであり、星々でもあり、それぞれの天地に存在する生きとし生けるものすべてを活かす力でもあり、風でもあり、水でもあり、大地でもあったんだ。
森羅万象をあらしめ生成化育する力として、いのち生き生きと活動しているのが、生命究極の本心本体である意識の真実なんだよ。
それが形に現れるときには、幾千億とも知れない銀河をもその体内に治めた無限なる生命源として、太陽光の数億乗の光として発光して現れるんだ。
「目も眩むような」という表現があるけど、人間の本心本体の光というのは、あまりにも眩すぎて、目なんか開けてられないほどの大光明なんだよ。
それが人類に内在するいのちの光の大元の姿なんだよ。(次回に続く)