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(前回の続き)
★すべては内なる宇宙の現れだった
"のれんに腕押し"って言葉があるでしょ。
それと同じように、きみの意識波動圏が大きくなれば、きみが相手の喜ぶ反応をしなくなるものだから、相手にとってきみは当たり散らし甲斐のない人となって、相手も次第に想いの排泄物をきみに投げつけて来なくなるんだよ。
そうしてるうちに、相手が本当は何を求めてたのかが観えて来るようになるんだ。
それで、相手が本当は何を求めてたのかがわかるようになると、その人はきみにとって愛すべき人に変貌するんだよ。
さあ、すべてをあらしめ生かす宇宙そのものの眼で以て、自分が創造したその人の心のなかを見つめてごらん。
その人が本当は何を求めていたのかを……。
ジーッと、ジーーーッと見つめてみるんだ。
…………………。
観えてきたねぇ。
そうだよ。
愛を求めてたんだ。
その人は、自分で自分を愛することが出来ないでいるものだから、表向きのネガティブな感情をフックにして、「愛をください、愛をください」って、きみの心の扉をノックしつづけてただけだったんだよ。
その相手は、自分の想いの持って行き方がわからなくって、縁の深いきみを頼って、粗暴なやり方や思いやりに欠ける接し方でもって、愛を所望していただけだったということだよ。
ホントは誰でも、自分が自分を本当に愛さなければ、他人からも真に愛されることは叶わない。
それなのに、生命真理をみんながみんな忘れ果ててしまって、誰に教わる機会もないまま年月を過ごしてきたものだから、若い人なら仕方ないにしても、年配になってさえも他人に悪態をつく体を装いながら、「自分のことをわかってください」「自分を認めてください」「自分を愛してください」って、やさしそうな人の足元に縋り付いて、無意識状態で一方的に助けを求めて来る人がいるんだね。
別な側面から見れば、そのような人たちが悪態をついたり、他人を困らせるようなことをしているのは、自律的にコントロール出来ない"意識の混乱状態"にあるからだよ。
それは、五感が麻痺してなんにも感じられない状態で暴れ回ってるような状態で、周囲の人にぶつかっても見えも聞こえもせず、さらには触覚も嗅覚も味覚もないもんだから、そういう人は「ぶつかって申し訳なかった」とも思えないでいるんだ。
ところが、助けを求められる側の人が神域の意識に立脚出来てない場合には、助けを求められた側もどうしていいかわからなくなって、共倒れになってしまうことがあるんだね。
その状態を別な例えで説明すると、海で遭難した人たちが水面に浮かんで救助船の到着を待ってるところで、自分の力で水面に浮かびつづけることに疲れ果てて、人にしがみ付いてでも助かろうとする人が出てきて、助けを求められた側の人も重みで浮かんでられなくなって、一緒に溺れてしまってるような状態だともいえるんだよ。
それで思い出してほしいのは、「相手に感じることは自分のなかにあることだ」という自分事の真理、鏡の法則の話だよ。
反転しているかいないかはその都度異なるけど、他人に感じることは自分のなかにあることで、自分に原因のあることを相手に映し出しては、好ましいとか好ましくないとか、相手に対して思ってるようでいながら、実は自分自身のことをジャッジしてただけだった、という話のことだよ。
その見方からすれば、自分が相手に何かを思うのは、その相手に原因があるのではなく、自分自身の内側にある好き嫌いや執着、こだわり、思い込みなどが原因になって、それを他人に投影して見てただけだった、というふうに見ることが出来るんだよ。(次回に続く)