スポンサーリンク

Voice of brothers 373 意識の扱いに困ったときに紐解く話 (4/4)

 前の同名記事

 

(前回の続き)

★水のような心で生きよう

なんにしても、自分の心がコリコリに固形化していなければ、相手がどんなに澱んだドロドロな水(想念言行)をこちらに流し込んできても、清流の心で自由に流すことが出来るし、逆に、接する相手がどんなに固形化した精神状態にあったって、こちらの心がサラサラ流れる水の心でいれば、相手が四角なら四角に、三角なら三角に、穴だらけのチーズみたいな形なら穴のあるところにというように、相手に合わせたぶつかり合うことのない態度や言葉でもって、その人の荒れ狂った感情をなだめたり、心の五感の麻痺を解いてあげたり、目耳の効く状態にして差しあげて、冷静で理性的なその人の神性を表面化してあげることさえも出来るんだよ。

その昔、中国に現れた聖者の老子が残した言葉に、『上善水如』というのがあるでしょ。

それそのものの生き方を自分に応用するんだ。

とてもいい話だから、ここに紹介しよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
【上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。】
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

(意味:最上の善なるあり方は水のようなものである。水はあらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに流れ落ち着く。故に道に近いのだ)

これは単に、争わない生き方をすればいいって意味でも、腰の引けた弱々しい人になれって意味でもないんだよ。

水はあらゆるものをその形にそって包み込んで流れ入ることが出来るやさしい存在だけど、そのように固形化した形のない柔らかいものこそが、強い流れになったときには、固いものをも動かすほどの力を持つものだという、反義的な意味をも含んだ言葉なんだよ。

また、自分という個我のない無形の心水の如き心こそが、携帯電話なんかの電波が建物の壁やガラスを通って室内に入ってくるように、隙間も見えないほどに固形化した人の心の中にも浸透して、相手の気づかないうちにその人の心の氷を溶かして、柔らかい人物に変えてゆくことも出来るんだよ。

まあ、エゴのある人が他人を変えようとしても変えられるもんじゃあないから、この話は無私の心になった人が無為自然の心で行なったことが結果的によい状態をつくり出すという話なんだけど、自分自身のこだわりや思い込みを取っ払って自由無礙な意識で生きていれば、物事はいかようにも取ることが出来るし、変化させることも出来るという一例だよ。

今回はいろんな話をしたけど、全部いっぺんにやろうとしなくてもいいし、自分が必要だと思えた箇所だけを取り入れてもいい。

最後に最初の話に戻ると、「イヤだなぁ。なんでこんなこと言われる(される)んだろう」って思うような他人の言動行為に接したときに、たとえ自分がどんな反応をしたとしても、けっして自分を責めてはいけないよ。

その自分を責める心こそが、他人の言動行為に”責め”や”攻め”を感じて、嫌な気持ちの嵐を自分自身が巻き起こす最大の要因なんだよ。

だから、他人をノージャッジで観るのと同じように、自分自身をも無批判・無評価・無非難で包み込んであげなくちゃいけないんだ。

他人に感じる評価というのは、客観的に感情を交えず事実を表現するとき以外には、自分が他人や自身に対してしてることとイコールなのだからね。(終わり)