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Voice of brothers 435 在るがままの神性を発揮するために

★自意識を律することの大切さ

なんか、なんでも判ったような気になっちゃって、油断・慢心している人は、天狗さんのように伸びたその”鼻っ柱の重み”によって、自尊心の鼻がへし折れて痛い目に合うときが来るからご用心だよ。

肉体に張り付いた習慣性の想念というのは、ちょっといいことが続いたくらいのことでいい気になったり、勘違いしたりするものね。

だからきみがそうならないために、常々自分を律するんだよ。

自分を律しなければ成るものも成らず、現実化するものも現実化しない。

それで、自分を導く者は己しかいない、というのはわかるでしょ。

他人に頼るクセのある人は、いつまで経っても責任転嫁の悪癖が抜けないし、自己憐憫の甘えというぬるま湯から出てこようとしないでいる。

かわいがるべき自己は神性の心身なんだよ。

けっして、神性エネルギーを誤用して自分になりすましてるエゴではないということを心に銘記しなくちゃね。

きみたちのなかにも、未だにエゴを自分だと思い違えてる向きがある。

エゴ想念というのは、過去世から今この時に至るまでの録画映像であって、絶対にきみたち自身ではないんだよ。

過去世からの悪癖が抜けない人は、自分がその録画映像の主人公になりきっちゃって、生命の本体にある神域の意識を眠らせてしまってるんだな。

だから、いつまでも不幸の渦巻きから抜け出せなくて、苦悩を未来に持ち越したままで過ごしてしまってる。

そういうのを客観的に観ると、なんて時間がもったいない遠回りって思うかも知れないけど、この世には何ひとつの無駄もないということも、併せて心に銘記してほしい。

すべては必然性のある現象で、完璧に天命を全うするプロセスなんだよ。

だから、たとえ何が起こってどんな想いにさいなまれたって、その苦悩の奥には神体から発する神域の意識があることを信じることだ。

人生を照らすいのちの光を認める人は、必ずその意識によって、みずからの人生を照らしてゆくし、逆にそれを認めない人は、みずからの信じたとおりに、光のない暗黒の淵をさまようことになる。

★植物のように生命の本源に真向かい成長しよう

最初に話した、人が陥りがちな油断や慢心というのも、この暗黒想念の一種なんだよ。

それで、想いには文字通り重みがあって、それが重ければ重いほど、意識に映じる暗黒を深めることになる。

言い換えれば、真理から離れていれば離れているほど、この世は絶望的に見えて、人間が不完全な存在に見えてしまうんだ。

それで、自分も他人もろくでもない者に見えるのならまだしも、自分だけがまともで、他の人だけろくでなしに見えてしまうことがあるんだね。

そういう心の背骨のゆがみは自然の摂理として、いつか必ず在るべき姿に戻されるときが来る。

それが今日の話の始めに言った、自分を律することの必要性につながってくるんだよ。

植物が太陽に向かってまっすぐに伸びてゆこうとするように、人類は生命の本源にまっすぐ真向かって、隙間のないくらいに一体化して生きてゆくことを志向しなければならない。

植物さんたちは、それを考えを巡らしてやってるわけじゃなく、生かされた命をそのままに生きてるんだけど、人類も様々な思慮分別を超越して、いのちの光をそのままに発揮して生きるのが望ましい。

そうすれば、油断も慢心もなく、有りのままの自分を正直に観て、在るがままのいのちの中に飛び込んでゆくことが出来るからね。

そのためにも、意識を年中鎮魂して生きることだよ。

そうするために、いつもの呼吸を深くするんだ。

この簡単な話こそが、きみの意識を深遠な宇宙に拡大して、在るがままの神性を発揮することにつながるんだよ。

実行あるのみ。

ただそれだけだよ。