(前回の続き)
★言葉の響き × 間脳(神納)への刺激 = 神性発現
「そんな話はもうたくさん。十二分に見聞きしてお腹いっぱいだ」って思うかも知れないけど、こういう真理の話はとても大事な話だから、よーく心に染み込ませるように、できれば声に出して読むといいね。
そうすると生命脳である間脳が刺激されて、文字をただ目で追って読むよりもはるかに魂の底にあるいのちの光と通じ合うことになって、内在する神性が刺激されて引き出されることになるんだよ。
間脳という響きは、神性が納められた場所という意味をも含む用法で、“かんのう”という同じ響きをもつ言葉が使われてるんだよ。
日本語というのは、奥の深い言語だね。
それで、自分自身でもって、誰にも頼らずに間脳を刺激するためには、神性の波動に合致した人類愛の祈り言葉を繰り返し唱えることがいいんだよ。
どうしてかというと、人類の調和や平和、みんながなかよく協力し、助け合って生きることを想うことそのものが、神の心そのものを響き出していることになるからだよ。
声に出せない場面では心の中で唱えつつ、寝る前とか、朝起きた時とか、お風呂の中でとか、お料理しながらとか、自分一人で声に出せる場所や時間があったなら、人の迷惑にならないように、周囲から奇異な目で見られないように気遣って、このことを実行するといいね。
今話したような行法は、「言葉が現実創造の力であることはよくわかった。でも、どういうふうに言葉を使えばいいのかわからない」って人が使うと特に有効で、目に見えて意識のあり方が見違えてくるねぇ。
なぜなら、真理の響きをもつ言葉の力を間脳に響かせることによって、誰もに初めから内在する神性が積極的に引き出されることになるからだよ。
今言ったみたいな、人類愛の祈り言葉を唱えるとか、真理の書を声に出して読むとか、そういう地道な日々の積み重ねこそが、忘れ果てていた神性をよみがえらせて、思い出すことになって、やがてはスッキリハッキリと明瞭明解に、神性意識そのものの視界が拓けて来るんだよ。
★言葉は即ち神なりき
ところで、キリスト教聖書のなかに「言は即ち神なりき」って書いてあるでしょ。
それは正確には、言葉の元の響きを指してるんだけど、肉体をとおして発した瞬間には言の葉になるから言葉と理解していいね。
それでこの言葉は、ことばが神の力、神力、神性の力であることを指しているから、そのように表現されているんだよ。
これは、神の働き・神性こそが、宇宙創造の力・働きとイコールだということなのね。
だから言葉というのは元来、現実を切り拓いて創造するうえで最大至高の力なんだよ。
きみたちには言葉の本義を理解して、正しい現実創造、運命運行をしてもらいたいって思って、言葉を尽くして話しているんだけど、言葉が現実創造の原料であり、それを産み出す力でもあり、言葉を使ってみんながそれぞれの宇宙を創り出しているって理が、少しは伝わったかなあ。(次回に続く)