★二元対立の世界とどまる人は
口を開けば他者への批判や非難、身勝手な評価に終始している人は、二元対立的優劣争いに価値を見いだしている人だといえるね。
そのような人にとっては、人間同士における弱肉強食的生存競争に打ち勝つことだけが成功であり、それに成功した人こそが人生の勝者だと、本気で思い込んでいるんだね。
彼らの心は、“自分のほうが正しい、強い、正当だ”等の一方的な思い込みを元に、他者に対してマウンティングをすることで喜々としているような精神レベルにとどまっている。
また、その争いに敗れたとみずからを認定した人は、その鬱憤を、さらに弱い者を叩くことで晴らそうとしてるね。
そのような世界では、社会的弱者はいつの時代も、女性・子ども・老人たちだった。
そのような弱肉強食的生存競争に価値を見いだして生きる精神状態の人を、動物人間というんだよ。
地球に縁の薄い他の星の一部の人たちは、そんな地球の人たちを動物の一部として観てるところもあってね、彼らからすれば地球という星は、さながら『猿の惑星』のようなとらえ方をされているんだ。
★神性あるところ敵なし
だけど僕たちはきみたちの本質が、僕たちと同じ神性にある事を知っている。
その神性を顕した人というのは、自他に優劣を付けて、自分を上に置いて、他者を膝下に組み敷こう等とは、けっして思わないものなんだよ。
そもそも、そのようなことをしようという発想がないんだね。
ここでいう“神性を顕した人”というのは、心が強くて立派な人のことで、そのような人には敵がない、つまり無敵なんだ。
その無敵な精神状態の人を、“神性を発現した人”というんだよ。
だから、神性を表して生きる人こそ、真の強者と呼べるんだ。
★強ければ強いほど、立派であればあるほど
人は強ければ強いほど、立派であれば立派であるほど、本来は、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』の言葉のように、自分を下座に置いて、他者を立て、控えめに振る舞うものなんだよ。
それでこそ本物の人間、真の人なんだ。
現在の世界では、急速にそのような動物人間が姿を消して、本物人間が現れ始めているとはいえ、この世の中には、まだまだ偽者(動物)人間が多いね。
人間と他の動物の一番大きく根本的な違いは、理性の有無だよ。
その理性は神性とも言い換えられるものだから、その根源には万物を守り育み、活かそうとする慈愛が根ざしている。
それで、心が理性を保って生きている状態にある人は、水と同様な性質の心をもっているともいえるね。
そういう人は、想いが高いところから低いところへ流れ、三角の器に入れば三角になり、丸い器に入れば丸い形になる、といったように、個我という障害がないから、状況に応じて変幻自在に自己を変化させて、地球上のあらゆるところに調和してゆくことができる、というわけなんだ。
人は、自分がどんなに正しいと想えても、曲げるべき時には自分を折るような、柔軟な思考を持っていることが望ましいね。
そうでなければ、歪みに歪み、ねじれにねじれきった人類の暗黒の心域に、いのち本来の光明を流し込み、本来の理性的視野を取り戻させることは難しいからね。
★持つべき真の強さ
そうあるためには、人は強くなければならない。
その人が持つべき真の強さとは、さっきも話したように、腕力や武力、または他人を打ち負かす弁舌力のようなことじゃないよ。
ここでいう強さとは、真の人間性に根ざした慈愛の心を持つということで、その心を元にした理性のうえに立って、すべての物事を善処する力のことなんだよ。
その意識こそが無敵の心であり、神性の在り方なんだ。
繰り返すけれど無敵とは、誰と戦っても負けない強さではないよ。
すべてを呑み込み、掌のうえに乗せて眺めることのできる、勝ち負けを超越した真の人間力のことをいうんだよ。(次回に続く)